慈円

慈円/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

摂関家出身の高僧・慈円|武者の世を嘆きながら後鳥羽院に重宝された理由

2024/09/24

嘉禄元年(1225年)9月25日は鎌倉時代の高僧にして『愚管抄』の著者でもある慈円が亡くなった日です。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では山寺宏一さんが演じていましたが、いざドラマでその姿を見たとき、いささか戸惑いませんでしたか?

大人しい僧侶かと思っていたら、後鳥羽上皇とは親しげにしていてコミュ力が高く。

どちらかというと貴族の政治家に近い。

では実際はどんな存在だったのか?

端的に答えだけ申し上げますと、慈円は有力貴族の生まれから比叡山で出世した僧侶であり、京都の政治にも通じた人物です。

史書である『愚管抄』を残したのも、自身や後鳥羽院に必要だと思ったからこそ。

北条氏のために書かれた『吾妻鏡』とは一味違うのも当然であり、それゆえ当時を知る重要な一冊になっています。

そんな慈円は、史実でどんな人物だったのか?

生涯を振り返ってみましょう。

 


苦しむ民に墨染の袖を覆いかけよう

慈円とは一体どんな人物なのか?

その一端を示すものとして、百人一首にも採用された「前大僧正慈円」の和歌があります。

和歌は当時の政治とも密接に関わりがありますので、苦手意識を取っ払って一読お願いしたいのですが……。

おほけなく うき世の民に おほふかな わが立つ杣(そま)に 墨染の袖

【意訳】身のほど知らずと言われるかもしれないが、この苦しく悲しみに満ちた世の人々の上に、比叡山に出家したわが墨染の袖を被いかけよう

この歌を初めて子供向けの本で読んだとき、私は「山奥の粗末な小屋で民を思う、寂しげな老僧の姿」を想像しました。

しかし実際は、全くそうではありませんでした。

「前大僧正慈円」という呼び方からして庶民とは別格です。

比叡山という日本有数の寺院で大僧正にまで上り詰め、かつその座を退いてからも敬意を払われる、そんな高い身分だったのです。

慈円が敬慕し、百人一首では、ただの「西行法師」として採用された西行とは違います。

歌の中にある「墨染の袖で民を被う」というのが「仏の教えで民を救う」ようにも思えますが、果たしてそれが正解なのか。

というのも当時の比叡山は巨大な政治権力を有しており、実際に行使もできました。

そもそも慈円は摂関家の出身であり、兄の九条兼実は朝廷でも上位にいる実力者。

程なくして兄は失脚しますが、慈円は後鳥羽院に寵愛されました。

朝廷での最高権力者です。

つまり慈円にも政治力があり、この「民を救う」という言葉も、仏ではなく政治権力によって救う意味合いがないとは言い切れません。

もうひとつ。

「わが立つ杣(そま)」という箇所は「比叡山に出家した」と解釈されますが、「杣」とはただの森ではなく、当時は権力が有する山林を指す。

摂関家出身のエリートとして、比叡山に君臨し、世直しをしてやるぞ――そんなエネルギッシュな和歌だったとも読み取れる。

野心すら感じさせる一首でした。

 


兄・兼実と弟・慈円

慈円は、前述の通り有力貴族・九条兼実の同母弟です。

実家は、公家の頂点に立つ藤原摂関家――ではありますが、その勢力を抑える【院政】の躍進により、もはや藤原道長時代ほどの勢力はありません。

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久寿2年(1155年)4月15日 、慈円は藤原忠通を父として生まれました。

兄の兼実と同じ母・加賀は女房であり、さほど身分は高くはなく、同年代の人物としては北条政子、源義経、木曽義仲、鴨長明らがおります。

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これが慈円にとっては恐ろしい争乱でした。

祖父と父である忠実と忠通が対立し、叔父の藤原頼長が矢を受けて亡くなったのです。

慈円はこの乱の直後に生母も失い、長寛2年(1164年)、10歳で父を失うと、翌年、覚快法親王のもとに入り、名を道快とします(本稿は「慈円」で統一)。

両親を失って仏門に入る――。

というと、ひどく悲しく不幸な印象を受けるかもしれません。

確かに個人としては不幸ですが、当時、皇族や摂関家の子弟が仏門に入るのはよくあることで、慈円が弟子入りした覚快法親王も鳥羽院の第七皇子です。

慈円は僧侶として、平家一門の台頭、源平合戦、そして鎌倉の動乱を見聞きすることになりました。

 

聖俗で結託して政治を動かす

一方、兄の九条兼実は、異母姉・聖子の猶子となり、藤原家の一員として歩んでいました。

兄弟は父・忠通晩年の子であり、兼実と慈円は若くして互いに協力して生きていきます。

聖俗両者が結託して政治を動かすことは、当時の常套手段。

特に比叡山では権力争いも激化しており、武力行使もしばしば起きる。

要は、俗世での権力がそのまま適用されるのであり、摂関家出身の慈円は優遇され、エリート僧侶として歩むこととなります。

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それは兄・兼実にとっても心強いことでした。

仁安2年(1167年)に慈円は、天台座主・明雲により受戒。

若干16で一身阿闍梨の称号を得て、法眼の位を得ました。

時代は源平合戦に向かう頃のことです。

戦乱で修行が妨げられることもしばしばありながら、ようやく修行を終えて山を降りると、慈円は兄・兼実に「遁世し生きる」と伝えました。

現世の権力とは、極力関わらないと伝えたのです。

しかし、そんな悠長な生活など、兄の兼実が許しません。

慈円は政治と縁が切れない人生を続けることになります。

治承2年(1178年)に法性寺座主に就任すると、養和2年(1182年)には、覚快法親王の死没を受けて青蓮院を継承。

建久3年(1192年)には天台座主に就任します。

僧侶としては最高の歩みですが、兄・兼実の意向が強く反映されたものです。

そして平家が滅亡すると、兼実が源頼朝と接近します。

兼実にとって、弟・慈円が天皇の御持僧(祈祷を行う僧侶)であることは非常に重要でした。

鎌倉から上洛した坂東武者の代表・頼朝たちは、朝廷で慈円の優雅な姿を見て、感心していたことでしょう。

『鎌倉殿の13人』では、その破綻した性格ゆえに目立っていた僧侶に文覚がおります。

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得体の知れない怪しげな文覚と比べると、はるかに常識的で血筋も良い、高僧の代表格・慈円。

京都に真っ当な高僧がいることは、否が応でも頼朝に、朝廷の存在を意識させたことでしょう。

 


天才歌人・慈円

慈円は、摂関家出身の血統だけが頼りだったワケでもありません。

兄の兼実は日記『玉葉』を残したことでも有名。

慈円も、鎌倉時代を代表する史書『愚管抄』を残すなど、兄弟には類まれな文才がありました。

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和歌もまた素晴らしく、聡明で美意識の高い後鳥羽院は、慈円の才能を熱愛しています。

慈円は和歌を素早く詠む。

しかも職業的に常によい和歌を詠まねばならない重圧があった藤原俊成や藤原定家とは異なり、思うがままに描くことができる。

いわば天才肌だったのです。

斬新で平明、かつ技巧に頼らず、心が素直に伝わってくる――そんな慈円の歌を後鳥羽院は愛し、そばに置きました。

が、同時にこの愛は慈円を縛るものでもありました。

摂関家出身からの政治力。

後鳥羽院に寵愛される文化芸術の才。

こうなっては、いかに本人が仏道に励みたいと思っても周囲が許してくれず、政治に関わるしかありません。

慈円が、当時の「新仏教への理解は高くない」と評されるのもそうした影響からでしょう。

僧侶でありながら、世を救うために行を極める時間がとれない宿命でした。

そんな慈円ならではの事態に遭遇したのは、建久7年(1196年)のことです。

兄・兼実がライバルである土御門通親との政治闘争に敗れて、後ろ盾を失い、座主を辞任することなりました。

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そしてその3年後の建久10年(1199年)には源頼朝が不可解な急死。

鎌倉の動乱は京都にも影響が及んできます。

梶原景時の討伐に続き、比企能員が北条に討たれ、そして頼朝の嫡男で二代目鎌倉殿でもあった源頼家が暗殺されます。

あまりにおぞましい流血の連続を、慈円は後に『愚管抄』に書き留めました。

 

「ムサノ世」を生きて

風向きが変わったのは建仁2年(1202年)のことです。

摂関家のライバルであった土御門通親が急死。

後鳥羽院が思うままの政治を進めるようになり、歌の才能に優れた慈円も側に置かれました。

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その結果、慈円は建仁3年(1203年)、大僧正にまで上り詰め、辞した後も「前大僧正」として権勢を誇るようになります。

さらに承元3年(1209年)には、一門の九条立子を順徳天皇に入内させ、摂関家出身の娘が皇子を産むという快挙が達成されました。

出家の身でありながら、兄が叶えられなかった悲願を成就させたのです。

しかし、慈円が「ムサノ世」、すなわち「武者の世」と呼んだ動乱は、彼の人生を永遠に変えてゆくこととなります。

建保7年(1219年)1月27日――。

後鳥羽院が目をかけていた三代将軍・源実朝公暁に暗殺されました。

しかもこのとき、後鳥羽院の側近出身で、実朝を支えていた源仲章までもが殺害されてしまいます。

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結果、後鳥羽院は鎌倉への態度を硬化。

倒幕を考えるまでになった主君を、慈円は思い留まるよう尽力します。

武士を敵に回してはならない――。

生まれて間も無く【保元の乱】に遭い、「武者の世」を嘆いていただけに、彼らと正面切って敵対することなど、考えただけでも恐ろしかったのでしょう。

しかし、慈円の懸念していた事態は程なくして実現してしまいます。

承久3年(1221年)に【承久の乱】が勃発。

当初は朝廷になびく者も多数出ると思われた目算は大きくはずれ、あれよあれよと坂東武者たちが京都へ押し寄せました。

そして為す術もないままに後鳥羽院は流罪。

九条立子を母とする仲恭天皇は廃位へ追い込まれ、同時に九条家の繁栄も終わりとなりました。

隠岐へ流された後鳥羽院は、その後も帰京は叶わず、もはや老いた身の慈円は何もできず。

嘉禄元年(1225年)、多くの弟子に囲まれて、その生涯を終えたのでした。

享年70。

【保元の乱】から【承久の乱】まで、まさしく「武者の世」の到来を見届けた人生でした。

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『愚管抄』とは

主君である後鳥羽院が、鎌倉に敵意を向け始めたとき、慈円は筆を執り始めました。

もはや和歌では後鳥羽院の心には届かない。

ならば見聞きした歴史を記しておこう。

日本の歴史書の定番である中国の史書――それを手本とするのではなく、あくまで自分なりの考えと見聞を書き記すことで、何らかの教訓を得られるように心を砕いた。

それが『愚管抄』です。

慈円は年老いていました。

何か暗い予感や危機感もありました。

雄々しい筆致とは異なる筆で、平安末期から鎌倉時代初期の歴史を記す。

『愚管抄』は貴重な記録です。

しかし、扱いには注意が必要であり、主に以下のような留意点があります。

◆文体が難解である

慈円の和歌は読みやすい。

しかし、『愚管抄』は文体そのものが難解。スッキリしておらず読みにくいのです。

あまりにわかりにくいため、口述筆記ではないか?と指摘されるほど。

◆愚管とは「私見」であり、バイアスがかかる

愚管とは「私見」という意味です。

始めから「私見をまとめたもの」と断っていて、摂関家出身の高僧が切り取った時代観となっています。

例えば『愚管抄』では、権力者としての北条政子を「女人入眼の日本国」と評しています。

これは摂関政治が外戚権力を基にして成立してきたことも踏まえねばなりません。

権力者の子を産むことが摂関家のやり方ですから、政子はそのルールに従っていると見なせます。

◆敵対者への当たりは厳しい

保元の乱】で父・忠通と敵対した藤原頼長はじめ、九条家の敵対者についての当たりは厳しくなっています。

九条兼実の『玉葉』。

慈円の『愚管抄』。

この兄弟のおかげで歴史が理解できることは確かですが、丸呑みせずに考えねばなりません。

歴史書にはどうしてもバイアスが掛かります。

執筆者の立場や意図を考えなければ、正確に理解できない――だからこそ北条氏と関わりのない『愚管抄』は同時代を見るのに重要な存在となっています。

『鎌倉殿の13人』において、三谷幸喜さんが原作のつもりだという『吾妻鏡』は、北条氏をかばうためのバイアスが強いことはよく指摘されることです。

そこで出番となるのが『愚管抄』。

京都で慈円が見聞きした情報には、北条氏への忖度がありません。

鎌倉での動きを聞いて、京都の人々がどう反応したのか?も浮かんできます。

つまり、この時代の重大事件は、『吾妻鏡』と『愚管抄』をつきあわせ、推理していく作業が必須となるんですね。

史料批判――史料をつきあわせて検討する作業は、歴史を学ぶ上で基本的な手順です。

ドラマはフィクションだからやらなくてよいのか?

というと、そう単純なものでもなく、特に大河ドラマはある程度の信憑性が求められるコンテンツです。

その点『鎌倉殿の13人』は、同時代の研究者から高い評価を受けています。

関連書籍も多く出て、どこをどうアレンジして作劇しているのか、わかりやすくなっているのですね。

◆「北条側の頼朝暗殺説は捨てきれない」歴史研究者が感心した「鎌倉殿」の見どころとは?(→link

◆ 鎌倉殿と仁義なき「やくざ」たち 義時は「もう帰っていいですか?」(→link

ドラマで慈円を見ることによって、『愚管抄』が彼の目線で書かれていると理解できる。

そんな実感を伴った歴史を学べるという意味で、ドラマを放送する意義もまた高まる。

『鎌倉殿の13人』は、それでこそ大河の役割を果たしたと言えるのでしょう。


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【参考文献】
大隅和雄『愚管抄を読む 中世日本の歴史観』(→amazon
目崎徳衛『史伝後鳥羽院』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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