天下人となった豊臣秀吉はもちろん、前田利家や柴田勝家、さらには明智光秀など。
綺羅星の如くスター武将が居並ぶ織田家において、その名は決して目立たぬけれど、この人がいなければ色々と困ったであろうなぁ……という武将も当然おりました。
その一人が天正十七年(1589年)9月25日に亡くなった蜂屋頼隆(はちや よりたか)でしょう。
「あっ、そういえば時々名前を見るよね……」と思う方がいれば、「聞いたことないっす」と返答する方も多そうな……。
さほどに危うい存在感ながら【桶狭間の戦い】以前から信長に仕えた功労者であり、地味に大切な役割もこなします。
その生涯、いかなるものだったか?
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蜂屋頼隆 信長の初上洛で密かな活躍
蜂屋頼隆の生年は不明。
出自だけでなく、いつから信長に仕え始めたのか、その理由等も定かではありません。
美濃の加茂郡に蜂屋村というところがあり、ここの土豪の出ではないかともいわれていますが、今のところはあくまで可能性の一つです。
そんな頼隆の動向と、信長からの評価が初めてうかがえるのは、永禄二年(1559年)のこと。
この年、信長は初の上洛を行いました。
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といっても軍事的な規模のものではなく、いわゆる”お忍び”というやつで、足利義昭を奉じての上洛とも違います。
さすがに完全な丸腰ではなく、80人ほどのお供はいたようですが、戦国時代ということを考えればかなりの冒険でしょう。
蜂屋頼隆も、お供のメンバーの中に含まれておりました。
『信長公記』にも書かれている、とある【事件の解決役】として出てくるのです。
当時、信長は、美濃の斎藤義龍と激しく対立しておりました。
そこで「信長が少人数で上洛する」と聞いた義龍は、腕の立つ配下の者たちを刺客として派遣。
信長の命を狙わせようとしたのですが、このとき尾張から信長を追いかけてきた丹羽兵蔵がそのとこに気づき、密かに先回りをして織田一行に知らせたため、大事には至りませんでした。
このとき兵蔵が報告した織田家のメンバーというのが蜂屋頼隆(と金森長近)だったのです。
「頼隆と長近は美濃に詳しい」
そう認識されていたからこそ、兵蔵は真っ先に彼らへ知らせようとしたのでしょう。
このことから、頼隆は美濃出身、かつ斎藤氏に仕えていた時期があるのではないか……とも考えられています。
詳細は、今後の研究に期待というところでしょうか。
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側近エリート・黒母衣衆の一員に
いずれにせよ、この一件からも頼隆は
「出自は不明なれど、若い頃から信長に信頼された古参のひとり」
という認識で問題ないでしょう。
実際、その後は信長の使番・黒母衣衆の一員になっており、ここでも信頼ぶりがうかがえます。
黒母衣衆には、他に佐々成政や中川重政、河尻秀隆などがおりましたので、彼らと連携したり、親交を持ったりといったこともあったかもしれません。
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ちなみに赤母衣衆には加賀百万石でお馴染みの前田利家が選ばれておりました。
しかし、信長と近いところにいた割に、蜂屋頼隆には特筆すべき逸話がない。キャラもわかりにくい。ゆえに人気も出にくいのでしょう。
次に頼隆の動向としてはっきりわかるのは、永禄十一年(1568年)の上洛です。
先のお忍び上洛と違い、このときは足利義昭を将軍につけるため、大軍で京都入りしたのでした。
このとき蜂屋頼隆は、柴田勝家・森可成・坂井政尚らと共に先陣を務め、三好三人衆の一人・岩成友通のこもる勝龍寺城(長岡京市)を攻めています。
四人で協力し、敵の首を50余り挙げたとか。
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入京後の政務でも、この四人は引き続き連携しております。
ときには佐久間信盛や和田惟政などとも手を合わせて、仕事をこなしておりました。
主な合戦にキッチリ参加はしている
また頼隆には、公家から連絡が来ることもあったようです。
永禄十二年(1569年)1月24日に、公家の飛鳥井雅敦から「本興寺(尼崎市)に陣を置くのはやめてほしい」と頼まれたことが記録されています。
いつの頃からか、頼隆は連歌・和歌の好士といわれるようになるのですけれども、もしかしたら飛鳥井家との付き合いができてから学んだのかもしれません。
飛鳥井家は和歌と蹴鞠をお家芸とする家ですから、手ほどきを受けることがあっても不自然ではないでしょう。
もっとも信長の傅役(もりやく)・平手政秀なども和歌に通じていましたので、以前から京都や公家と関わっていた織田家の別人に学んだ可能性もあります。
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その後は伊勢北畠氏が相手の【大河内城の戦い】や、浅井氏との戦い、三好義継と三好三人衆との合戦など、信長関連の主要な戦に多く参加しました。
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しかし、頼隆は同じような戦に参加していた武将たちと比べ、このあたりから出世が遅くなっていきました。
例えば、浅井・朝倉攻めに関して、森可成らが琵琶湖周辺の要所・宇佐山城を任されているのに対し、頼隆は一武将として部隊を率いるにとどまっています。
具体的に見ておきますと、
といった感じです。
特に、当時織田家では新参者だった光秀や、一気に出世してきた秀吉と比べると、頼隆は完全に取り残されてる感は否めません。
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