北畠具教/wikipediaより引用

信長公記

伊勢攻略の総仕上げ・北畠親子が退去してから〜超わかる『信長公記』第64話

61話から63話にかけて進めてきた織田家の伊勢攻略。
前回で一応本拠地の陥落まで進め、ようやく一息ついた……とならないのが織田信長の凄いところ、というか戦国期の領土経営の難しさでありましょう。

阿坂城の戦い 先陣は藤吉郎に任せた!超わかる信長公記61話

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伊勢地方を陥落させた直後から、次々に手を打ち、同エリアの統括を進めて参ります。

それは一体どんな内容だったのか?
時系列順に見て参りましょう。

 


朝熊山あさまやまに参詣

1569年10月3日
正式に織田軍と北畠軍の和睦が成立し、北畠具教(トップ画像)・具房親子が大河内城を退去しました。

1569年10月5日
信長が伊勢参りに出発。
よく「神をも畏れぬ」と表現される信長ですが、実はこうした神詣もよくやっているんですよね。

1569年10月6日
信長、伊勢神宮の内宮・外宮・朝熊山あさまやまに参詣しました。

朝熊山は山岳信仰の対象となっていた山で、金剛證寺こんごうしょうじという臨済宗のお寺もあります。

1979年に再建された仁王門/photo by N yotarou wikipediaより引用

ここが伊勢神宮の鬼門(北東)にあることから、室町時代には
「伊勢と朝熊、両方行かなければ片参り(片手落ち)」
といわれるまでになっていました。

信長も、この考えに従って両方へ詣でたものと思われます。

純粋な信仰心からか。
周囲へのイメージ戦略からか。
それこそ神のみぞ知るところですね。

 


信雄の補佐は滝川と信包に任せた

1569年10月7日
神宮から小作に移動し、宿泊。

1569年10月8日
上野(津市)で一度落ち着き、伊勢攻略に参加した武将たちへ撤収の支度をするよう命じました。

北畠の本拠地だった大河内城に城主として入るのは茶筅丸こと後の織田信雄です。

補佐として津田一安がつけられました。
ほか周囲の安濃津・渋見・小作は滝川一益、上野は織田信包のぶかね(信長の弟・信行の次に年長)の管轄としています。

他の武将たちには撤退命令を出しましたが、信長自身は御馬廻衆だけを連れて、そのまま京都へ向かっています。
本当にフットワークが軽い人ですね。

織田信包/wikipediaより引用

 


将軍義昭に成果を報告

1569年10月9日
千草(おそらく三重県三重郡菰野町千草付近)まで進んだーーとあります。
この日はかなりの雪が降っておりました。

新暦だと11月半ばあたりですから、山岳地帯であること、現代でもまとまった雪が降る場所であることを考えれば、自然ですね。
もしかすると、雪になることを見越し、兵を連れずに御馬廻衆だけを連れて行ったのかもしれません。

10日
近江・市原(東近江市)に宿泊。

11日
上洛し、伊勢平定の旨を将軍・足利義昭に報告しました。
その後16日まで京都に滞在し、上方での政務を片付けています。

17日
ようやく岐阜へ帰還。
この節で『信長公記』の巻二も終わりとなります。

お気づきの通り、全て永禄十二年(1569年)10月の話ですね。
この年は六条合戦に始まり、将軍御所造営、皇居修繕、伊勢攻略で慌ただしく、特に年始から10月まで、ほぼ岐阜以外の場所で活動しておりました。

信長と家臣たちの多忙ぶりがうかがえます。

長月 七紀・記

※信長の生涯を一気にお読みになりたい方は以下のリンク先をご覧ください。

織田信長
織田信長の天下統一はやはりケタ違い!生誕から本能寺までの生涯49年を振り返る

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信長公記

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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link
『戦国武将合戦事典』(→amazon link


 



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