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【慈円】
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「ムサノ世」を生きて
風向きが変わったのは建仁2年(1202年)のことです。
摂関家のライバルであった土御門通親が急死。
後鳥羽院が思うままの政治を進めるようになり、歌の才能に優れた慈円も側に置かれました。
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その結果、慈円は建仁3年(1203年)、大僧正にまで上り詰め、辞した後も「前大僧正」として権勢を誇るようになります。
さらに承元3年(1209年)には、一門の九条立子を順徳天皇に入内させ、摂関家出身の娘が皇子を産むという快挙が達成されました。
出家の身でありながら、兄が叶えられなかった悲願を成就させたのです。
しかし、慈円が「ムサノ世」、すなわち「武者の世」と呼んだ動乱は、彼の人生を永遠に変えてゆくこととなります。
建保7年(1219年)1月27日――。
後鳥羽院が目をかけていた三代将軍・源実朝が公暁に暗殺されました。
しかもこのとき、後鳥羽院の側近出身で、実朝を支えていた源仲章までもが殺害されてしまいます。
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結果、後鳥羽院は鎌倉への態度を硬化。
倒幕を考えるまでになった主君を、慈円は思い留まるよう尽力します。
武士を敵に回してはならない――。
生まれて間も無く【保元の乱】に遭い、「武者の世」を嘆いていただけに、彼らと正面切って敵対することなど、考えただけでも恐ろしかったのでしょう。
しかし、慈円の懸念していた事態は程なくして実現してしまいます。
承久3年(1221年)に【承久の乱】が勃発。
当初は朝廷になびく者も多数出ると思われた目算は大きくはずれ、あれよあれよと坂東武者たちが京都へ押し寄せました。
そして為す術もないままに後鳥羽院は流罪。
九条立子を母とする仲恭天皇は廃位へ追い込まれ、同時に九条家の繁栄も終わりとなりました。
隠岐へ流された後鳥羽院は、その後も帰京は叶わず、もはや老いた身の慈円は何もできず。
嘉禄元年(1225年)、多くの弟子に囲まれて、その生涯を終えたのでした。
享年70。
【保元の乱】から【承久の乱】まで、まさしく「武者の世」の到来を見届けた人生でした。
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『愚管抄』とは
主君である後鳥羽院が、鎌倉に敵意を向け始めたとき、慈円は筆を執り始めました。
もはや和歌では後鳥羽院の心には届かない。
ならば見聞きした歴史を記しておこう。
日本の歴史書の定番である中国の史書――それを手本とするのではなく、あくまで自分なりの考えと見聞を書き記すことで、何らかの教訓を得られるように心を砕いた。
それが『愚管抄』です。
慈円は年老いていました。
何か暗い予感や危機感もありました。
雄々しい筆致とは異なる筆で、平安末期から鎌倉時代初期の歴史を記す。
『愚管抄』は貴重な記録です。
しかし、扱いには注意が必要であり、主に以下のような留意点があります。
◆文体が難解である
慈円の和歌は読みやすい。
しかし、『愚管抄』は文体そのものが難解。スッキリしておらず読みにくいのです。
あまりにわかりにくいため、口述筆記ではないか?と指摘されるほど。
◆愚管とは「私見」であり、バイアスがかかる
愚管とは「私見」という意味です。
始めから「私見をまとめたもの」と断っていて、摂関家出身の高僧が切り取った時代観となっています。
例えば『愚管抄』では、権力者としての北条政子を「女人入眼の日本国」と評しています。
これは摂関政治が外戚権力を基にして成立してきたことも踏まえねばなりません。
権力者の子を産むことが摂関家のやり方ですから、政子はそのルールに従っていると見なせます。
◆敵対者への当たりは厳しい
【保元の乱】で父・忠通と敵対した藤原頼長はじめ、九条家の敵対者についての当たりは厳しくなっています。
九条兼実の『玉葉』。
慈円の『愚管抄』。
この兄弟のおかげで歴史が理解できることは確かですが、丸呑みせずに考えねばなりません。
歴史書にはどうしてもバイアスが掛かります。
執筆者の立場や意図を考えなければ、正確に理解できない――だからこそ北条氏と関わりのない『愚管抄』は同時代を見るのに重要な存在となっています。
『鎌倉殿の13人』において、三谷幸喜さんが原作のつもりだという『吾妻鏡』は、北条氏をかばうためのバイアスが強いことはよく指摘されることです。
そこで出番となるのが『愚管抄』。
京都で慈円が見聞きした情報には、北条氏への忖度がありません。
鎌倉での動きを聞いて、京都の人々がどう反応したのか?も浮かんできます。
つまり、この時代の重大事件は、『吾妻鏡』と『愚管抄』をつきあわせ、推理していく作業が必須となるんですね。
史料批判――史料をつきあわせて検討する作業は、歴史を学ぶ上で基本的な手順です。
ドラマはフィクションだからやらなくてよいのか?
というと、そう単純なものでもなく、特に大河ドラマはある程度の信憑性が求められるコンテンツです。
その点『鎌倉殿の13人』は、同時代の研究者から高い評価を受けています。
関連書籍も多く出て、どこをどうアレンジして作劇しているのか、わかりやすくなっているのですね。
ドラマで慈円を見ることによって、『愚管抄』が彼の目線で書かれていると理解できる。
そんな実感を伴った歴史を学べるという意味で、ドラマを放送する意義もまた高まる。
『鎌倉殿の13人』は、それでこそ大河の役割を果たしたと言えるのでしょう。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
大隅和雄『愚管抄を読む 中世日本の歴史観』(→amazon)
目崎徳衛『史伝後鳥羽院』(→amazon)
他