千早城の戦い

千早城内で藁人形を作っている様子の描かれた『大楠公一代絵巻』/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町 逃げ上手の若君

千早城の戦いで楠木正成の奇策が次々に炸裂!鎌倉幕府軍を相手に見せたその手腕

古今東西、著名な武将には、何かしら後世に知られた合戦がありますよね。

源義経であれば一ノ谷や壇ノ浦。

織田信長なら桶狭間や長篠。

徳川家康だったら三方ヶ原、関ヶ原、大坂の陣あたりでしょうか。

では南北朝時代の代表的武将である楠木正成は?

となると、やはり元弘三年(1333年)2月26 or 27日に始まった【千早城の戦い】でしょう。

「よのつねならぬ合戦の体」とも記される策士・楠木正成の奇策で、幕府軍がとにかく振り回される――正成の名を世に知らしめるキッカケとなった合戦、少し詳しく振り返ってみましょう。

楠木正成/wikipediaより引用

 


後醍醐天皇が倒幕計画を進めた理由

まずは合戦に至るまでの背景を確認しておきます。

時の帝・後醍醐天皇は「両統迭立(りょうとうてつりつ)の流れを廃止して、自分の皇子を皇太子にしたい」と考えていました。

両統迭立とは、皇室が真っ二つに割れ、

◆大覚寺統

◆持明院統

という二派で交互に天皇を輩出していた体制のことを指します。

以下の系図をご覧になられたほうがご理解が早いかもしれません。

左のラインが大覚寺統で中央が持明院統です(右側は補足であるもので無視して構いません)。

後嵯峨天皇の次に後深草天皇が続き、今度はその子ではなく亀山天皇へ……といった具体で、交互に即位していくものですが、いかにも危ういシステムですよね。

「もう、ヤツらには渡さん! 今度はコチラ一本でやっていく!」

どちらか片方がそんな覚悟を抱いてしまったら途端に崩壊してしまう。

実際、時代が下るにつれてどちらの系統にも不満が溜まっていき、鎌倉幕府も途中で

「もう皇位には関与しませんので、あとはそちらでお好きにどうぞ」(超訳)

というスタンスに振り切ってしまいます。

両統は、幕府のこの対応に納得できず「こっちの味方についてください!」という使者を何度も立て、後醍醐天皇の場合は、さらにもう一つ不満に思う要素がありました。

大覚寺統の後醍醐天皇は「兄の息子である邦良親王が成長するまで」という期限付きで皇太子に立てられたので、邦良親王派からも持明院統からも

「空気読んで早めに譲位してくれないと困るんですけどー」

という態度を取られていたのですね。

そこで後醍醐天皇は考えました。

「両統迭立を推す鎌倉幕府を倒してしまえば、ワシの子孫を次代以降の天皇にできる!」

そして倒幕計画を立て始めたのです。

 


正中の変も元弘の変も失敗となるが……

後醍醐天皇の計画はいきなり失敗しました。

最初は元亨4年(1324年)9月19日、倒幕計画がバレてしまいますが、このときは「臣下が勝手にやったこと」として助かります。

【正中の変】と呼ばれていて、これしきの事で後醍醐天皇の倒幕意志は消えません。

後醍醐天皇/wikipediaより引用

次は元徳三年(1331年)に行動を移そうとするも、またもや事前に計画を察知されてしまい、今度は天皇の側近らが捕縛されました。

【元弘の変】と呼ばれ、こうなると「後醍醐天皇を捕らえろ!」となるのも自然の流れで、御所が包囲されてしまいます。

しかし、その程度で諦めないのが後醍醐天皇の真骨頂。

密かに京都を脱出すると、笠置山(現・京都府相楽郡笠置町)で倒幕の兵を挙げるのです。

このときは花山院師賢(かさんのいん もろかた)という貴族が後醍醐天皇に変装し、真逆の比叡山へ向かうという念の入れようでした。

そしてその比叡山でも、後醍醐天皇の皇子である護良親王と、その弟・宗良親王が挙兵します。

宗良親王が比叡山のトップである天台座主だったので、延暦寺の僧兵を味方につけることができたのですね。

実は護良親王も少し前までは天台座主を務めており、親王たちにとって比叡山は庭のようなものでした。

僧兵/wikipediaより引用

これらの動きに対し、当然、鎌倉幕府は討伐軍を差し向けます。

約100年前に起きた【承久の乱】では「皇室に逆らうなんて……」と躊躇していた武士たちも、既にそれが“前例”となっていたお陰か、どんどん進軍。

一方、河内では、以前から後醍醐天皇らと接触していたらしき楠木正成が、周辺から作物を奪うなどして軍備を整えていました。

そして正成は下赤坂城(元・大阪府南河内郡)に籠もり、幕府軍を引き付けて戦うことにします。

「あれ? 千早城じゃないの?」

そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。先に赤坂城と千早城の繋がりを確認しておきましょう。

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