千早城の戦い

千早城内で藁人形を作っている様子の描かれた『大楠公一代絵巻』/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

千早城の戦いで奇策が次々に炸裂!鎌倉幕府軍を翻弄した楠木正成の戦術

2025/02/27

古今東西、著名な武将には、何かしら後世に知られた合戦がありますよね。

源 義経であれば一ノ谷や壇ノ浦。

織田 信長なら桶狭間や長篠。

徳川 家康だったら三方ヶ原、関ヶ原、大坂の陣あたりでしょうか。

では南北朝時代の代表的武将である楠木正成は?

となると、やはり元弘三年(1333年)2月26 or 27日に始まった【千早城の戦い】でしょう。

「よのつねならぬ合戦の体」とも記される策士・楠木正成の奇策で、幕府軍がとにかく振り回される――正成の名を世に知らしめるキッカケとなった合戦、少し詳しく振り返ってみましょう。

楠木正成/wikipediaより引用

 


後醍醐天皇が倒幕計画を進めた理由

まずは合戦に至るまでの背景を確認しておきます。

時の帝・後醍醐天皇は「両統迭立(りょうとうてつりつ)の流れを廃止して、自分の皇子を皇太子にしたい」と考えていました。

両統迭立とは、皇室が真っ二つに割れ、

◆大覚寺統

◆持明院統

という二派で交互に天皇を輩出していた体制のことを指します。

以下の系図をご覧になられたほうがご理解が早いかもしれません。

左のラインが大覚寺統で中央が持明院統です(右側は補足であるもので無視して構いません)。

後嵯峨天皇の次に後深草天皇が続き、今度はその子ではなく亀山天皇へ……といった具体で、交互に即位していくものですが、いかにも危ういシステムですよね。

「もう、ヤツらには渡さん! 今度はコチラ一本でやっていく!」

どちらか片方がそんな覚悟を抱いてしまったら途端に崩壊してしまう。

実際、時代が下るにつれてどちらの系統にも不満が溜まっていき、鎌倉幕府も途中で

「もう皇位には関与しませんので、あとはそちらでお好きにどうぞ」(超訳)

というスタンスに振り切ってしまいます。

両統は、幕府のこの対応に納得できず「こっちの味方についてください!」という使者を何度も立て、後醍醐天皇の場合は、さらにもう一つ不満に思う要素がありました。

大覚寺統の後醍醐天皇は「兄の息子である邦良親王が成長するまで」という期限付きで皇太子に立てられたので、邦良親王派からも持明院統からも

「空気読んで早めに譲位してくれないと困るんですけどー」

という態度を取られていたのですね。

そこで後醍醐天皇は考えました。

「両統迭立を推す鎌倉幕府を倒してしまえば、ワシの子孫を次代以降の天皇にできる!」

そして倒幕計画を立て始めたのです。

 


正中の変も元弘の変も失敗となるが……

後醍醐天皇の計画はいきなり失敗しました。

最初は元亨4年(1324年)9月19日、倒幕計画がバレてしまいますが、このときは「臣下が勝手にやったこと」として助かります。

【正中の変】と呼ばれていて、これしきの事で後醍醐天皇の倒幕意志は消えません。

後醍醐天皇/wikipediaより引用

次は元徳三年(1331年)に行動を移そうとするも、またもや事前に計画を察知されてしまい、今度は天皇の側近らが捕縛されました。

【元弘の変】と呼ばれ、こうなると「後醍醐天皇を捕らえろ!」となるのも自然の流れで、御所が包囲されてしまいます。

しかし、その程度で諦めないのが後醍醐天皇の真骨頂。

密かに京都を脱出すると、笠置山(現・京都府相楽郡笠置町)で倒幕の兵を挙げるのです。

このときは花山院師賢(かさんのいん もろかた)という貴族が後醍醐天皇に変装し、真逆の比叡山へ向かうという念の入れようでした。

そしてその比叡山でも、後醍醐天皇の皇子である護良親王と、その弟・宗良親王が挙兵します。

宗良親王が比叡山のトップである天台座主だったので、延暦寺の僧兵を味方につけることができたのですね。

実は護良親王も少し前までは天台座主を務めており、親王たちにとって比叡山は庭のようなものでした。

僧兵/wikipediaより引用

これらの動きに対し、当然、鎌倉幕府は討伐軍を差し向けます。

約100年前に起きた【承久の乱】では「皇室に逆らうなんて……」と躊躇していた武士たちも、既にそれが“前例”となっていたお陰か、どんどん進軍。

一方、河内では、以前から後醍醐天皇らと接触していたらしき楠木正成が、周辺から作物を奪うなどして軍備を整えていました。

そして正成は下赤坂城(元・大阪府南河内郡)に籠もり、幕府軍を引き付けて戦うことにします。

「あれ? 千早城じゃないの?」

そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。先に赤坂城と千早城の繋がりを確認しておきましょう。

 

赤坂城と千早城

まずは全体的なイメージを掴みたいと思います。

千早城があった山には、全部で3つの城が並んでいました。

上段・中断・下段に一つずつ城があり、以下のように構えていたのです。

(上)千早城

(中)上赤坂城

(下)下赤坂城

厳密に言いますと【赤坂城の戦い】時点では、まだ千早城は存在しておらず、この時代は天守閣もなく、イメージ的には“砦”といったほうが近いかもしれません。

現代では

◆「赤坂城の戦い」といった場合は下赤坂城での戦

その後に起きた

◆「千早城の戦い」といった場合は上赤坂城・千早城での戦

と指すことが多いようです。

楠木方は元弘元年(1331年)9月11日に下赤坂城で挙兵すると約一ヶ月ほど奮闘。

しかし、笠置山の後醍醐天皇と、比叡山の護良親王たちは幕府軍に敗北します。

後醍醐天皇は赤坂城へ向かう途中で捕まって隠岐島へ流され、宗良親王は讃岐へ流罪となってしまいました。

護良親王だけはどうにか赤坂城に到着することができましたが、同時に幕府軍も迫ってきました。

赤坂城を取り囲んだ幕府軍は、作戦を“兵糧攻め”に切り替えます。

そこで「長く持ちこたえることはできない」と判断した正成は、

・楠木氏は一族郎党揃って自害したと見せかけるために

一計を案じます。

「立っている者は親でも使え」ならぬ「死んでいる者は敵でも使え」とばかりに、小競り合いで死んだ敵兵の遺体を20~30ほど集め、下赤坂城ごと火にかけたのです。

当然、遺体は真っ黒焦げ。

後で城の中を検分した幕府軍は「正成とその一族が自害し、火を放ったに違いない」と一人合点して引き上げてゆきました。

 


下赤坂城は平野将監に任せた

楠木正成の策にかかり、幕府軍が戦場から去ってゆくと、正成はしばらく身を潜め、護良親王は熊野へ落ち延びることとしました。

そして翌年、正成は見事に復活――幕府軍の度肝を抜きます。

下赤坂城を奪い返した正成は、さらに背後の千早城に移って再び幕府軍と戦う算段をつけるのです。

下赤坂城は平野将監に任せました。

<a href=

佐々木定綱" width="450" height="530" />

平野将監はマンガ『逃げ上手の若君』で「瘴奸」として登場した人です。

「逃げ若」は北条時行が主人公であり、彼がいない場面はかなりスピーディーにまとめられているので、残念ながら赤坂城や千早城の戦いは描かれていません。

『太平記』における赤坂城での平野将監はなかなかカッコイイ口上もしているので、連載が終わったらスピンオフで出たりしませんかね……。

また『太平記』では赤坂城攻略中のこととして、

とある幕府方の武士二人が早朝から「一騎打ちに応じる者はいないか!」と大声で呼ばわったものの、楠木方の兵から「一の谷の二番煎じ笑」(超訳)と密かにディスられ、それでも二人が諦めないので矢を雨あられと浴びせた

という、ちょっとかわいそうなエピソードが挿入されています。

さらにその後、

一騎打ちを申し出たうちの一人の息子が「あの世でも父に尽くしたい」と涙ながらに訴えてきたので、楠木方の城兵も哀れに思って戸を開いてやり、その息子は散々城兵と切り合った後、父が死んだ場所で自害した

と続きます。

『太平記』は物語ですから、脚色や創作の可能性を捨てきれません。ただ、完全にありえない話ではなさそうですよね。

こうして「力攻めでは損耗が大きい」と判断した幕府軍は、水を断って城内を干上がらせる作戦に切り替え。

これまた『太平記』によれば「楠木軍が地下に通していた樋(水道管みたいなもの)を幕府軍が破壊し、城内の水を断って降伏させた」とあります。

下赤坂城にはその他に水の備えがなく、平野将監たちは敵に降伏。

多くの兵が京に送られて六条河原で斬首されると、その報を聞いた千早城や天皇方各地の兵は「絶対に降伏はしない!」と気焔を上げ、ますます結束力を高めたといいます。

もちろん正成も諦めませんでした。

 

幕府軍「正成討つべし!」

次は楠木正成のいる千早城を取り囲んだ幕府軍。

もちろん楠木軍は打って出るような真似はしません。

千早城復元模型千早赤阪村立郷土資料館蔵/wikipediaより引用

敵が迫ると見るや石を落とし、後続が怯んだ隙に矢を散々に浴びせる――といった戦法で、幕府軍の出鼻を挫いてゆきます。

力攻めは不可能だと考えた幕府軍は、「赤坂城と同様に、近隣の水場を占拠して正成たちを干上がらせよう」と考えました。

しかし、そんなことは正成も予測済み。

事前に山伏たちが使っている水場を教わったり、場内に木をくり抜いた水槽をたくさん用意して雨水を貯めておいたり、対策は万全でした。

おかげで包囲する幕府軍のほうが緊張感を保てなくなり、いきおい警戒心が緩みます。

まさに正成が待っていたタイミング――そこで楠木軍は、夜明けに襲撃を仕掛け、北条一門である名越隊の旗を奪い、それを城に飾った上で

「これは昨日名越殿から頂戴しました! でも役に立たないので引き取りに来てくださ~い!!」

という屈辱のコンボをぶちかまします。

精神攻撃がうますぎですね。

武士にとって、土地と面子は命に替えても守るべきものであり、そこを大々的に突かれた名越隊は、もはや決死の突撃を敢行するしかない。

と、それこそ楠木正成が待っていた展開。

名越隊は、城方から落とされる大木に巻き込まれて圧死する兵が続出し、さらには矢も射掛けられて散々な状況に陥ります。

その後も攻め手は兵糧攻めをしようとしたもののやっぱり気が緩み、遊女を呼び寄せて遊ぶ有様。

しかも双六をしている最中にサイコロの目のことでケンカをし始め、そのまま刃傷沙汰となり、同士討ちでかなりの被害を出したとか。

当然これは城内の楠木軍に笑われています。

そこに正成に奇策を講じられては兵を減らす、という堂々巡りが続きました。

 

石つぶてや熱湯 さらには藁人形も駆使する戦術

他にも楠木軍は、当時としては奇抜な戦法を駆使しまくります。

石つぶてや熱湯を投げつけたり、甲冑を着せた藁人形を兵に見せかけ敵を引き入れて攻撃するなど、正成の戦上手ぶりを世に知らしめるのです。

千早城内で藁人形を作っている様子の描かれた『大楠公一代絵巻』/wikipediaより引用640

これらの戦術は「正成の独創ではない」とも指摘されますが、この時期の幕府軍はそもそも実戦経験が無い人のほうが多かった。

鎌倉時代を通して見てもこうした攻城戦の類はほぼみられませんし、少なくとも正成と相対した幕府軍にとっては奇想天外なものに見えたでしょう。

そのうち焦れた鎌倉からも

「時間ばかりかけて何をやっているんだ! さっさと城を落とせ!!」

という叱責が届き、幕府軍は再び力攻めを試みます。

もちろん城方も黙ってはおらず、橋に松明を落とした上に油を注ぎ、幕府軍の侵攻を防御。

また、吉野にいた野伏たちが正成に協力し、幕府軍の物資を奪って、逆に兵糧攻めを仕掛けました。

太平記では「これらの戦術により、幕府軍は80万から10万に減ってしまった」としていますが、例によって盛りすぎの数字なので、比率としてみたほうがいいでしょう。

実際は多めに見積もっても8000→1000くらいではないでしょうか。

1/8に減るというのもなかなかのものですが、兵が減る理由は討死だけではありません。逃亡や、負傷兵の護送、親が討死した場合に息子が供養するなども含まれます。

それらも合わせると、千早城攻略中に幕府軍の兵数が激減したのは間違いなさそうです。

 

正成の粘り勝ち そして鎌倉幕府は滅亡

幕府軍が千早城へ釘付けになっていたのと同時期に、護良親王は吉野で挙兵し倒幕の令旨を出して他の武士たちを引き込んでいました。

千早城を囲んでいた幕府軍にも、この令旨を受け取った人がいたそうですから、後方撹乱として十二分な力があったと思われます。

太平記では

新田義貞が「もう北条氏はダメっぽいから、護良親王殿下のご命令を頂戴して倒幕側に加わりたいんだけどどうかな」(意訳)と家臣に相談し、なんとか連絡をつけて護良親王から命令書をもらい、病気と称して引き上げた

ということになっています。

新田義貞公肖像/wikipediaより引用

事実として、義貞は幕府軍として千早城攻略に加わっていたのですが、元弘三年(1333年)3月には勝手に帰ってしまいました。

それから二ヶ月後には地元・上野で倒幕の兵を挙げていますので、おそらく『太平記』と似たような流れがあったのでしょう。

さらに、4月には鎌倉から西国の反幕府軍討伐にやってきたはずの足利高氏(尊氏)が、5月7日に六波羅探題(京都にあった鎌倉幕府の出張所みたいなもの)を攻略。

この知らせが千早城付近にも届き「楠木にかまってる場合じゃないぞ!」と考えた幕府軍は、5月10日に千早城の包囲を解いて撤退しました。

正成の戦略勝ち、粘り勝ちです。

また、護良親王は吉野で敗北してしまったものの、新田義貞らが5月中旬に上野を発ち、5月22日ついに鎌倉を落とし、幕府は滅亡。

千早城から鎌倉へ帰った北条一門も、その多くが鎌倉で討死したとされます。

護良親王からすると「試合に勝って勝負に負けた」ならぬ「試合に負けて勝負に勝った」みたいな感じでしょうか。

こうして鎌倉時代は終わりましたが、後醍醐天皇と足利尊氏を中心として、まだまだまだ世の中は混乱していきます。


みんなが読んでる関連記事

楠木正成
合戦の常識を一変させた天才・楠木正成|尊氏に敗れたのは偶然か必然か

続きを見る

足利尊氏
室町幕府の初代将軍・足利尊氏|ドタバタの連続だったカリスマの生涯

続きを見る

新田義貞
鎌倉幕府を倒した新田義貞の生涯|後醍醐天皇に翻弄された悲運の最期

続きを見る

足利直義
室町幕府樹立の功労者・足利直義|最期は兄・尊氏と衝突してからの不審死

続きを見る

後醍醐天皇
後醍醐天皇の何がどう悪かった?そしてドタバタの南北朝動乱始まった

続きを見る

長月 七紀・記

【参考】
生駒孝臣『楠木正成・正行(実像に迫る006)』(→amazon
『完全解説 南北朝の動乱』(→amazon

TOPページへ


 



リンクフリー 本サイトはリンク報告不要で大歓迎です。
記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。
引用・転載をご希望の際は お問い合わせ よりご一報ください。
  • この記事を書いた人
  • 最新記事

長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

-源平・鎌倉・室町
-

右クリックのご使用はできません
目次