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【千早城の戦い】
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石つぶてや熱湯 さらには藁人形も駆使する戦術
他にも楠木軍は、当時としては奇抜な戦法を駆使しまくります。
石つぶてや熱湯を投げつけたり、甲冑を着せた藁人形を兵に見せかけ敵を引き入れて攻撃するなど、正成の戦上手ぶりを世に知らしめるのです。

千早城内で藁人形を作っている様子の描かれた『大楠公一代絵巻』/wikipediaより引用640
これらの戦術は「正成の独創ではない」とも指摘されますが、この時期の幕府軍はそもそも実戦経験が無い人のほうが多かった。
鎌倉時代を通して見てもこうした攻城戦の類はほぼみられませんし、少なくとも正成と相対した幕府軍にとっては奇想天外なものに見えたでしょう。
そのうち焦れた鎌倉からも
「時間ばかりかけて何をやっているんだ! さっさと城を落とせ!!」
という叱責が届き、幕府軍は再び力攻めを試みます。
もちろん城方も黙ってはおらず、橋に松明を落とした上に油を注ぎ、幕府軍の侵攻を防御。
また、吉野にいた野伏たちが正成に協力し、幕府軍の物資を奪って、逆に兵糧攻めを仕掛けました。
太平記では「これらの戦術により、幕府軍は80万から10万に減ってしまった」としていますが、例によって盛りすぎの数字なので、比率としてみたほうがいいでしょう。
実際は多めに見積もっても8000→1000くらいではないでしょうか。
1/8に減るというのもなかなかのものですが、兵が減る理由は討死だけではありません。逃亡や、負傷兵の護送、親が討死した場合に息子が供養するなども含まれます。
それらも合わせると、千早城攻略中に幕府軍の兵数が激減したのは間違いなさそうです。
正成の粘り勝ち そして鎌倉幕府は滅亡
幕府軍が千早城へ釘付けになっていたのと同時期に、護良親王は吉野で挙兵し倒幕の令旨を出して他の武士たちを引き込んでいました。
千早城を囲んでいた幕府軍にも、この令旨を受け取った人がいたそうですから、後方撹乱として十二分な力があったと思われます。
太平記では
新田義貞が「もう北条氏はダメっぽいから、護良親王殿下のご命令を頂戴して倒幕側に加わりたいんだけどどうかな」(意訳)と家臣に相談し、なんとか連絡をつけて護良親王から命令書をもらい、病気と称して引き上げた
ということになっています。

新田義貞公肖像/wikipediaより引用
事実として、義貞は幕府軍として千早城攻略に加わっていたのですが、元弘三年(1333年)3月には勝手に帰ってしまいました。
それから二ヶ月後には地元・上野で倒幕の兵を挙げていますので、おそらく『太平記』と似たような流れがあったのでしょう。
さらに、4月には鎌倉から西国の反幕府軍討伐にやってきたはずの足利高氏(尊氏)が、5月7日に六波羅探題(京都にあった鎌倉幕府の出張所みたいなもの)を攻略。
この知らせが千早城付近にも届き「楠木にかまってる場合じゃないぞ!」と考えた幕府軍は、5月10日に千早城の包囲を解いて撤退しました。
正成の戦略勝ち、粘り勝ちです。
また、護良親王は吉野で敗北してしまったものの、新田義貞らが5月中旬に上野を発ち、5月22日ついに鎌倉を落とし、幕府は滅亡。
千早城から鎌倉へ帰った北条一門も、その多くが鎌倉で討死したとされます。
護良親王からすると「試合に勝って勝負に負けた」ならぬ「試合に負けて勝負に勝った」みたいな感じでしょうか。
こうして鎌倉時代は終わりましたが、後醍醐天皇と足利尊氏を中心として、まだまだまだ世の中は混乱していきます。
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長月 七紀・記
【参考】
生駒孝臣『楠木正成・正行(実像に迫る006)』(→amazon)
『完全解説 南北朝の動乱』(→amazon)