千早城の戦い

千早城内で藁人形を作っている様子の描かれた『大楠公一代絵巻』/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町 逃げ上手の若君

千早城の戦いで楠木正成の奇策が次々に炸裂!鎌倉幕府軍を相手に見せたその手腕

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赤坂城と千早城

まずは全体的なイメージを掴みたいと思います。

千早城があった山には、全部で3つの城が並んでいました。

上段・中断・下段に一つずつ城があり、以下のように構えていたのです。

(上)千早城

(中)上赤坂城

(下)下赤坂城

厳密に言いますと【赤坂城の戦い】時点では、まだ千早城は存在しておらず、この時代は天守閣もなく、イメージ的には“砦”といったほうが近いかもしれません。

現代では

◆「赤坂城の戦い」といった場合は下赤坂城での戦

その後に起きた

◆「千早城の戦い」といった場合は上赤坂城・千早城での戦

と指すことが多いようです。

楠木方は元弘元年(1331年)9月11日に下赤坂城で挙兵すると約一ヶ月ほど奮闘。

しかし、笠置山の後醍醐天皇と、比叡山の護良親王たちは幕府軍に敗北します。

後醍醐天皇は赤坂城へ向かう途中で捕まって隠岐島へ流され、宗良親王は讃岐へ流罪となってしまいました。

護良親王だけはどうにか赤坂城に到着することができましたが、同時に幕府軍も迫ってきました。

赤坂城を取り囲んだ幕府軍は、作戦を“兵糧攻め”に切り替えます。

そこで「長く持ちこたえることはできない」と判断した正成は、

・楠木氏は一族郎党揃って自害したと見せかけるために

一計を案じます。

「立っている者は親でも使え」ならぬ「死んでいる者は敵でも使え」とばかりに、小競り合いで死んだ敵兵の遺体を20~30ほど集め、下赤坂城ごと火にかけたのです。

当然、遺体は真っ黒焦げ。

後で城の中を検分した幕府軍は「正成とその一族が自害し、火を放ったに違いない」と一人合点して引き上げてゆきました。

 


下赤坂城は平野将監に任せた

楠木正成の策にかかり、幕府軍が戦場から去ってゆくと、正成はしばらく身を潜め、護良親王は熊野へ落ち延びることとしました。

そして翌年、正成は見事に復活――幕府軍の度肝を抜きます。

下赤坂城を奪い返した正成は、さらに背後の千早城に移って再び幕府軍と戦う算段をつけるのです。

下赤坂城は平野将監に任せました。

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平野将監はマンガ『逃げ上手の若君』で「瘴奸」として登場した人です。

「逃げ若」は北条時行が主人公であり、彼がいない場面はかなりスピーディーにまとめられているので、残念ながら赤坂城や千早城の戦いは描かれていません。

『太平記』における赤坂城での平野将監はなかなかカッコイイ口上もしているので、連載が終わったらスピンオフで出たりしませんかね……。

また『太平記』では赤坂城攻略中のこととして、

とある幕府方の武士二人が早朝から「一騎打ちに応じる者はいないか!」と大声で呼ばわったものの、楠木方の兵から「一の谷の二番煎じ笑」(超訳)と密かにディスられ、それでも二人が諦めないので矢を雨あられと浴びせた

という、ちょっとかわいそうなエピソードが挿入されています。

さらにその後、

一騎打ちを申し出たうちの一人の息子が「あの世でも父に尽くしたい」と涙ながらに訴えてきたので、楠木方の城兵も哀れに思って戸を開いてやり、その息子は散々城兵と切り合った後、父が死んだ場所で自害した

と続きます。

『太平記』は物語ですから、脚色や創作の可能性を捨てきれません。ただ、完全にありえない話ではなさそうですよね。

こうして「力攻めでは損耗が大きい」と判断した幕府軍は、水を断って城内を干上がらせる作戦に切り替え。

これまた『太平記』によれば「楠木軍が地下に通していた樋(水道管みたいなもの)を幕府軍が破壊し、城内の水を断って降伏させた」とあります。

下赤坂城にはその他に水の備えがなく、平野将監たちは敵に降伏。

多くの兵が京に送られて六条河原で斬首されると、その報を聞いた千早城や天皇方各地の兵は「絶対に降伏はしない!」と気焔を上げ、ますます結束力を高めたといいます。

もちろん正成も諦めませんでした。

 


幕府軍「正成討つべし!」

次は楠木正成のいる千早城を取り囲んだ幕府軍。

もちろん楠木軍は打って出るような真似はしません。

千早城復元模型千早赤阪村立郷土資料館蔵/wikipediaより引用

敵が迫ると見るや石を落とし、後続が怯んだ隙に矢を散々に浴びせる――といった戦法で、幕府軍の出鼻を挫いてゆきます。

力攻めは不可能だと考えた幕府軍は、「赤坂城と同様に、近隣の水場を占拠して正成たちを干上がらせよう」と考えました。

しかし、そんなことは正成も予測済み。

事前に山伏たちが使っている水場を教わったり、場内に木をくり抜いた水槽をたくさん用意して雨水を貯めておいたり、対策は万全でした。

おかげで包囲する幕府軍のほうが緊張感を保てなくなり、いきおい警戒心が緩みます。

まさに正成が待っていたタイミング――そこで楠木軍は、夜明けに襲撃を仕掛け、北条一門である名越隊の旗を奪い、それを城に飾った上で

「これは昨日名越殿から頂戴しました! でも役に立たないので引き取りに来てくださ~い!!」

という屈辱のコンボをぶちかまします。

精神攻撃がうますぎですね。

武士にとって、土地と面子は命に替えても守るべきものであり、そこを大々的に突かれた名越隊は、もはや決死の突撃を敢行するしかない。

と、それこそ楠木正成が待っていた展開。

名越隊は、城方から落とされる大木に巻き込まれて圧死する兵が続出し、さらには矢も射掛けられて散々な状況に陥ります。

その後も攻め手は兵糧攻めをしようとしたもののやっぱり気が緩み、遊女を呼び寄せて遊ぶ有様。

しかも双六をしている最中にサイコロの目のことでケンカをし始め、そのまま刃傷沙汰となり、同士討ちでかなりの被害を出したとか。

当然これは城内の楠木軍に笑われています。

そこに正成に奇策を講じられては兵を減らす、という堂々巡りが続きました。

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