流罪となった源頼朝を支援し、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも重要人物として登場した比企尼(ひきのあま)。
同作品では、この“乳母”の存在が、とても印象的に描かれていました。
史実においても、当時の権力者たちは多くの女性に支えられながら出世の階段を昇っていったのです。
京都でその頂点にいたのが後鳥羽上皇。
そして、その彼を支えてきたのが乳母の藤原兼子(ふじわらのけんし)であり、寛喜元年(1229年)8月16日はその命日です。
実は姉の藤原範子も後鳥羽上皇の乳母でしたが『鎌倉殿の13人』では兼子だけが登場、シルビア・グラブさんが演じられました。
なかなかアクの強い女性像で描かれていた彼女は一体どんな人物だったのか?
史実におけるその生涯を振り返ってみましょう。
なお、呼び名は卿局(きょうのつぼね)はじめ複数あり、位階の昇進に応じて卿三位、卿二位と呼ばれています。
本稿では「藤原兼子」で統一して進めてまいりましょう。

藤原兼子イメージ絵・小久ヒロ
叔父・藤原範季のもとで育つ
藤原兼子は久寿2年(1155年)、父・藤原範兼のもとに生誕。
同年の生まれには、安徳天皇の母である平徳子もいます。

平徳子/wikipediaより引用
つまり兼子は、平家の台頭と転落、鎌倉幕府ができる過程を見つめた人生といえます。
そんな彼女が数えで11才となった永万元年(1165年)、父の範兼を亡くし、叔父・範季のもとで育てられました。
この範季、源義朝の六男にあたる源範頼を引き取って育てていました。
兼子が、こうした縁から範頼を知っていてもおかしくはありません。
範頼は久安6年(1150年)生まれですので、5歳年上の兄のような存在といえましょう。
範頼が源氏の武将として活躍し、平家を討ち滅ぼす様子を兼子はどう感じていたのか――さすがに細かすぎてそこまでは描かれませんでしたね。

源範頼/wikipediaより引用
四の宮が運命の即位
治承4年(1180年)に以仁王と源頼政が挙兵。
治承・寿永の乱(源平合戦)が始まります。

以仁王(左)と源頼政/wikipediaより引用
二人の蜂起が失敗に終わったその二ヶ月後、高倉天皇に第四子が生まれました。
母は坊門殖子(藤原あるいは七条院とも)で、後白河院の孫でもありますが、平清盛の外孫である異母兄(安徳天皇)と比べて地味な存在だった四の宮は藤原範季のもとに預けられます。
範頼はじめ、有力者子息のスカウトこそが、範季の生き甲斐だったのかもしれません。
かくして四の宮は、藤原範子と藤原兼子の姉妹に育てられることとなりました。
姉妹を乳母とした四の宮、その兄たちは乱世に巻き込まれてゆきます。
異母兄の安徳天皇は平家によって都から連れ去られ、【壇ノ浦の戦い】で水に飛び込み崩御。

安徳天皇/wikipediaより引用
四の宮の同母兄である守貞親王(後高倉院)も平家のもとで育てられ、都落ちの際も同行し、平家滅亡後は出家させられました。
天皇、あるいはその皇子だったとしても不幸な末路を辿ってしまう混乱の最中、まだ幼い三宮と四の宮も天皇の候補に挙げられます。
木曽義仲までもが北陸宮(以仁王の子)を担ぎ出し、天皇の人選に口出し始めると、混乱はいよいよ極みとなり、もはや猶予無し――そんな状況のもと、四の宮が選ばれました。
後鳥羽天皇の誕生です。
しかし、この人選も経緯はハッキリしていません。
何しろ【三種の神器】もないままに行われた即位です。
後白河院の面接の結果とか、後白河院の寵妃・丹波局の夢占いとか、諸説あって特定できないながら、ともかく藤原範季一門にとっては大きな幸運。

後白河法皇/Wikipediaより引用
後鳥羽天皇の即位は、その後の兼子や周囲の者たちの人生を大きく変えます。
例えば、兼子の姉・範子には僧侶の夫・能円がいました。
異父兄姉に平時子・平時忠を持つこの能円は、平家と運命を共にして流罪に。
残された能円の娘・在子を兼子が引き取って暮らしていると、目を留めたのが土御門通親であり、在子を自らの養女とすると、後の後鳥羽天皇の妃となります……って、ややこしいですね。
以下に整理しておきましょう。
藤原範季:四の宮(後鳥羽院)や源範頼を育てる
藤原範子と兼子:藤原範季の姪
源在子:藤原範子の姪、後鳥羽院の妃
土御門通親:在子の義父であり、後鳥羽天皇の義父
このように後鳥羽天皇は、即位と同時に彼を支える人材が多く揃っていたとも言えます。
後鳥羽天皇にとって母方である「坊門」の名も重要でした。
次の天皇となる宮の大叔母として
ドラマを思い出してください。
『鎌倉殿の13人』では、後鳥羽天皇に入内しようとする源頼朝と北条政子の長女・大姫の姿も印象的に描かれていました。
あの入内工作の最中、既に後鳥羽天皇には妊娠中の妃がいると語られます。
ざっと以下の通り。
九条任子:九条兼実の娘。女子を産む
源在子:土御門通親の娘(養女)。藤原兼子の姉・範子の娘。土御門天皇の母
藤原重子:藤原範季の娘。順徳天皇の母
天皇の寵愛を受けて男児を産む――それがどれだけ大変なことか、と、大姫と母の北条政子はプレッシャーをかけられましたが、実際にその通り、甘くありません。
建久6年(1195年)に大姫は上洛を果たすものの、2年後、健康を害して夭折してしまいました。

大姫(源頼朝と北条政子の娘)/wikipediaより引用
その様子を兼子はどのように見ていたのでしょう……。
九条兼実も孫は内親王のみで天皇の外祖父になれず、結局、後鳥羽院の後宮では、土御門通親の勝利となったのです。
次の天皇となる宮の大叔母として、兼子も勝者の側にいました。
建久9年(1198年)、後鳥羽天皇が退位します。
土御門通親が、まだ若い後鳥羽天皇に譲位を勧めた結果であり、天皇の外祖父として権力を盤石にしたい思惑がありました。
本来、摂関家の外戚政治を削ぐ目的のあった院政は、かえって外戚の通親に利用されたのです。
しかし、退位後の後鳥羽院は上皇として院政を敷く気に満ちており、権力を手放す気はありません。
比例して、後鳥羽院の信頼厚い兼子が、ますます力を見せるようになります。
権力と共に複数の求婚者が
正治元年(1199年)、兼子は45歳で典侍となりました。
後鳥羽院の側近として政治の表舞台に姿を現し、同年、土御門通親が重用していた藤原宗頼と結婚します。宗頼も遅咲きで、兼子の一歳年上でした。
そして建仁2年(1202年)、時代が動きます。
絶大な権力を誇っていた土御門通親が就寝中に急死。

土御門通親(源通親)/wikipediaより引用
重石の取れた後鳥羽院はもはや思うがままに振る舞うことができ、側近として重用されたのが、藤原範光と藤原兼子という一才差の兄と妹でした。
後鳥羽院の意を受け、その実行に移す役割を得ていたのです。
姉や姪とは異なり、兼子自身は結婚からは縁遠い人生でしたが、権力と共にその状況も変わってゆきます。
建仁3年(1203年)に夫の宗頼が亡くなると、兼子のもとへ複数の求婚者が現れました。
年齢を踏まえると、あからさまな権力狙い。
それほどまでに絶大な力を持っていた兼子は、大炊御門家3代当主・藤原頼実を相手に選ぶと、夫婦揃って後鳥羽院の側近となりました。
女性が政治権力を持ち、それを狙いに求婚者が殺到する。
若さでも美貌でも出産能力でもなく、その政治手腕が結婚の理由になる。
日本史とはこうも奥深いのか?
歴史の教科書ではほとんど取り上げられないのは、明治維新の影響かもしれません。このとき女官が天皇に取り次ぐ役目が廃止されました。
しかし本来、宮廷の女官には政治力があり、兼子はその代表格でした。
後鳥羽院と実朝
京都で着実に権力を有していく藤原兼子。
鎌倉からの醜聞も彼女のもとへ届いていました。
建久10年(1199年)、源頼朝が落馬後に急逝して以来、鎌倉では酷いほどの内輪揉めが続いていました。
「鎌倉本体の武士」として京都でも知られていた梶原景時一族の死。
流浪の頃から頼朝を支えてきた比企一族の滅亡。
『吾妻鏡』では、その死を明記してはいない源頼家の酷い死に様は『愚管抄』にあります。
風呂で追い詰め、首に縄をかけ、急所を握りつぶした殺した。

源頼家/wikipediaより引用
もう言葉にならない。これで報いがないはずがない……そんな都人の驚きと嘆きが記されています。
夥しい流血事件を繰り返した鎌倉では、頼家の弟・源実朝が将軍に就任。
後鳥羽院は、側近の源仲章を鎌倉へ送り込みます。
元服したばかりの実朝に、豊富な漢籍知識を基にした帝王学を教え込み、朝廷に忠実な将軍としたのです。
さらには坊門信清の娘・信子を京都から鎌倉へ向かわせ、実朝の正室としました。
坊門家は後鳥羽院母方の血筋です。
これでもか、という囲い込みでありますが、この時も血生臭い事件が起こってしまいました。
元久2年(1205年)、実朝の正室を迎えるため上洛した北条時政と牧の方(りく)の子・北条政範が齢16にして急死してしまったのです。
この事件の直後に、鎌倉は再び動乱へ。
畠山重忠の乱が起き、他ならぬ北条家でも
時政と牧の方(りく)
vs
政子と義時
という【牧氏事件】が起き、事件の余波を受けて、京都まで追手が到達しました。
狙いは時政の娘婿・平賀朝雅です。
ドラマでは、源氏一門としてはいささか情けない印象で討たれていましたが、『吾妻鏡』によると、後鳥羽上皇と囲碁を打っているときに「追手が来たから退席する」として自らその場を離れ、謀反人として討伐されたとあります。
首実検を務めたのは、朝雅を高く買っていた後鳥羽院。
これまた『鎌倉殿の13人』では、怒りに震える後鳥羽院の姿が描かれていましたね。
北条氏により粛清の嵐が吹きすさぶ鎌倉では、その後も、和田義盛が大暴れする【和田合戦】など、状況が好転する兆しが見えません。

和田義盛/Wikipediaより引用
一方、京都では、武芸にも和歌にも長けた文武両道の帝王・後鳥羽院が君臨しています。
権力簒奪の好機を狙うには、十分すぎる状況が整っていました。
政子と会談
鎌倉にはある問題が持ち上がります。
源実朝と坊門信子夫妻は仲睦まじくしているものの、一向に子供が生まれません。実朝は側室も置こうとしない。

源実朝/Wikipediaより引用
そんな建保6年(1218年)正月、実朝の母である北条政子が「熊野詣」を名目に上洛を果たしました。
実朝の特徴として、父・頼朝や兄・頼家をしのぐ官位昇進の速さがあります。
母である政子も、落飾した女性でありながら、従三位に叙せられました。
ちなみに「北条政子」の「政子」という呼び方は、官位を叙せられるために名乗ったものとされます。
父・時政から「政」を取ったとされ、官位を得るまでは別の名で呼ばれていたと考えられます。
しかし「政子」の名があまりに有名なためか、『鎌倉殿の13人』はじめフィクションでは最初から政子名義で通すことが一般的です。
この上洛のとき、政子は藤原兼子に面会を果たました。
女性政治家二人の会談が、しかも歴史を大きく動かします。
男子を授からぬまま、実朝に万一のことがあれば、後鳥羽院の子・頼仁親王を鎌倉に下向させ、将軍としてはどうか?
兼子がそう提案したのです。
彼女は頼仁親王を養育してきました。親王は、実朝の妻である坊門信子の甥にもあたります。
しかし、政子は躊躇したことでしょう。
実朝はまだ三十前であり、常識的に考えれば子を諦める年齢ではありません。
それでも実朝自身には、何らかの理由で「自分に子はできない」と考えていた節もあります。
源氏将軍は自分の代で終わる――そんな予感を口にしていたとされるのです。
そして兼子と政子の会談は、思わぬ方向へ飛び火します。
源頼家の子であり、実朝には甥に当たる公暁(こうぎょう)。

公暁(月岡芳年『美談武者八景_鶴岡の幕雪/wikipediaより引用
己という甥がいながら源氏将軍を自らの代で終わりにするとは何事か――とばかりに実朝へ憎悪の念を抱き、恐ろしい事件を引き起こすのです。
ご存知のとおり暗殺です。
実朝暗殺
承久元年(1219年)正月27日、公暁は源実朝に遅いかかり、その命を奪いました。
結果、実朝が予感していように、源氏将軍は三代で断絶、後鳥羽院が送り込んでいた源仲章も事件現場に居合わせ、命を落としてしまいます。

実朝たちに斬りかかる公暁/国立国会図書館蔵
あまりにも重い事件に直面し、後鳥羽院も態度を硬化。
もはや鎌倉と歩調を合わせることはできない――
そう決意して、頼仁親王の鎌倉行きを断固拒みました。
代わりに妥協案として浮上してきたのが、摂関家から将軍を輩出する話です。
再三に渡る交渉の末、将軍の座は摂関家から三寅(幼名・後に藤原頼経)が就くことになりましたが、それでも諦めきれなかったのが藤原兼子でした。
変わらず頼仁親王の下向を訴えたのです。
それがあまりに疎ましかったのか。
後鳥羽院は兼子を拒み、遠ざけるのですが、三寅に決まったことでさらなる事態の悪化を招いてしまいます。
在京の武士に、源頼政の孫である源頼茂がいました。
この頼茂は、摂津源氏の血を引く己こそがに将軍の座にふさわしい――そう望んでいたのですが、三寅に決まったことで望みを失い、召喚に応じなくなったため、やむなく頼茂討伐の院宣がくだされました。
結果、頼茂は自害と共に自邸を放火。
その火が内裏まで焼いてしまい、後鳥羽院はショックで寝込んでしまいます。
鎌倉将軍のせいでこうも苦しめられるとは何事か……。
京都と鎌倉の決裂が深まりゆく中、もはや兼子の声は後鳥羽院に届かなくなるのでした。
落日の主従
それから二年後の承久3年(1221年)――後鳥羽院は挙兵します。

後鳥羽天皇(後鳥羽上皇)/wikipediaより引用
【承久の乱】です。
鎌倉からは北条泰時と北条時房が兵を率いて上洛、京都に戦乱が巻きこまれる悪夢の再現となりました。
兼子は二度の兵乱を目にしたばかりか、乱の結果は最悪なものとなってしまいます。
後鳥羽院と順徳天皇は流罪。
後鳥羽院の寵臣として権勢を誇った兼子の一族たちも処刑されてしまうのです。
晩年の兼子は苦悩の日々でした。
延暦寺と所領を争い、京都を追放される。強盗の被害に遭う。あまりに辛い日々。
そして寛喜元年(1229年)夏、頭部の腫瘍により世を去りました。
享年75。
中世の大物政治家として
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、女性の政治権力が描かれました。
主人公である北条義時の姉・政子や、鎌倉在住の他の女性たちだけでなく、敵対する京都でも複数登場。
後白河院の側にいた丹後局、そして後鳥羽院の藤原兼子が圧倒的な存在感でした。
彼女たちは政子に敵対する比企能員の妻・道や、義母である牧の方(りく)とは異なり、朝廷の権威を背負っています。
本稿の最後に『鎌倉殿の13人』出演者発表のコメントから藤原兼子を演じるシルビア・グラブさんに注目してみましょう。
北条政子と対決する大政治家。
シルビア・グラブさんコメント
後鳥羽上皇を育て、鎌倉時代にかなり力を持っていたとされる藤原兼子。政治にも助言し影響力があったそうです。
北条政子もそうですが、この時代の女性はかなり強いと感じています。
舞台では、西洋の強い女性をたくさん演じてきましたが、今回は日本の鎌倉時代。
たくさんの方々のご指導を受け、個性的なキャストの中で、少しでも兼子としての印象を残せるよう頑張りたいと思います。
最初から強さを意識した人物像であり、実際の放送でも見事に演じられましたよね。
最大の見所はやはり政子との対峙でした。
凄まじい緊張感の中、陳腐な近寄り方ではない、お互いの身を少しずつ削るような歩み方で、最終的には「一杯どう?」と打ち解けるまで、非常に充実したシーン。
いま思い返しても、歴史に残る名場面だったと思います。
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【参考】
坂井孝一『考証 鎌倉殿をめぐる人びと』(→amazon)
坂井孝一『承久の乱-真の「武者の世」を告げる大乱』(→amazon)
坂井孝一『源実朝「東国の王権」を夢見た将軍』(→amazon)
坂井孝一『源氏将軍断絶 なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか』(→amazon)
細川重男『鎌倉幕府抗争史~御家人間抗争の二十七年~』(→amazon)
日崎徳衛『史伝後鳥羽院』(→amazon)
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