同時に、生き残った人の方が際限なき苦痛にさいなまれることもあります。最近は【サバイバーズ・ギルト】という言葉で表されたりしますね。
本日はそんな生涯を送ったと思われる、とある女性に注目。
建保元年(1214年)12月13日は、安徳天皇の母である平徳子が亡くなった日です。「建礼門院」という院号も有名ですね。
おそらく、源平時代どころか平安時代、ひいては日本史上でも屈指の不幸に見舞われた女性ではないでしょうか。
源平の争いは政争や戦の話が中心になりますけれども、これを徳子の立場から見ると次のような壮絶な状態となります。
「夫が病死したと思ったら父も亡くなり、兄弟はほとんど討ち死にした上に母と息子が入水。後を追って自分も身を投げたら、一人だけ敵に助けられて三十年も生き続けた」
これだけだとあまりにも身も蓋もありません。
もうちょっと詳しく見ていきましょう。
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入内から7年で待望の皇子を授かった平徳子
平徳子は、平清盛が平家の棟梁になって二年後に生まれました。
このタイミングで皇室に入り込むための女の子が生まれたわけですから、清盛は小躍りして喜んだでしょうね。
とはいえ生まれた直後で入内というのも無理があるため、実際に話が持ち上がったのは徳子16歳になってからです。
清盛自ら望んだとも、後白河法皇が清盛の勢力を強めることで、自分の発言権を強めるために持ちかけたともいわれています。
また、後白河法皇の妃である平滋子(建春門院)が朝廷内の融和のために提案した……という話もありますね。
こうして裳着(女性の成人式)と同時に入内したものの、徳子はなかなか子供に恵まれませんでした。
自身もまだ若いこと、高倉天皇は他の女性との間に内親王をもうけていたこともあり、じっと機会を待つことになります。
高倉天皇が21歳の若さで亡くなり
入内から七年たち、待望の懐妊。
安産の祈祷が連日行われ、平徳子は無事に皇子を産みました。
これが後の安徳天皇です。
まず間違いなく天皇になる男子が生まれたことで、清盛はクーデターにより後白河法皇を鳥羽殿に押し込めました。
これを受けて高倉天皇は三ヶ月後に安徳天皇に譲位し、院政を行うようになります。
しかし同じ年の5月に以仁王の挙兵=平家打倒の流れが起きると、高倉天皇も健康を害し、徳子にとっては「実家も嫁ぎ先もキナ臭い」という最悪な状態に陥りました。
そして高倉天皇が21歳の若さで亡くなると、どこからか「徳子を後白河法皇の妃にしよう」という話が出たこともありました。
それによって平家全体の権威を保とうというわけです。
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