文治五年(1189年)9月22日は、源頼朝によって葛西清重が奥州総奉行に任ぜられた日です。
清重本人については以下の記事にて触れています。
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今回は、東北の中世史には欠かせない【奥州総奉行】や、これに類する役職に注目してみましょう。
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奥州総奉行が設置された目的は2つある
「鎌倉時代はいつ始まったのか?」というテーマで、注目度の高い元暦二年(1185年)。
この年、源頼朝は、弟の義経追捕を理由に各地へ守護・地頭を設置していました。
葛西清重が任命される4年前のことになりますね。
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こうして守護地頭が設置されている状況に加えて、更に奥州総奉行ができたのはナゼか?
理由が2つあると考えられます。
キーポイントは奥州総奉行の拠点。
そう、そこは平泉でした。
一つ目の設置理由は、この直前まで平泉で繁栄し、そして頼朝に滅ぼされた奥州藤原氏の再興の芽を完全に摘むこと。
後年の尼子家と山中鹿介などの例を見るとわかりますように
「一度、滅びたと思った家がドコからか血縁者を担ぎ出し復帰を試みる」
と言うのは歴史上お馴染みの光景です。
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そもそも頼朝からして、一度は殺されかけて助命され、東国へ流されて復活したという経歴を持っています。
奥州藤原氏の場合、最後の当主・藤原泰衡とその兄弟である国衡・忠衡は討ち死になどによってこの世を去っていましたが、その血縁者を名乗る者がいつ現れるとも限りません。
これを防ぐためには、一族の殲滅と本拠地の確保が欠かせません。
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平泉は、東北で数少ない都市機能を持った場所
もう一つは、平泉が当時の東北で数少ない【十分な都市機能を持った場所だった】ことです。
この時代、大都市と呼べる場所はそう多くありません。
京都から離れれば離れるほど、その傾向は強まります。
源義経追捕という喫緊の目的がある状況で、拠点を新たに作るというのは悠長に過ぎる話ですよね。
だったら、そこを使った方が話は早い。
ゆえに、もしも義経が奥州ではなく違う場所に潜んだり、平泉が衰退していたら、奥州総奉行の立ち位置は全く違うものになっていたかもしれません。
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といっても、イキナリでなんですが、その後「奥州総奉行」の名はしばらく歴史の表舞台から消えてしまいます。
当初の目的が義経討伐だったせいで、それが済んだ後は「後任者の必要なし」とみなされたのでしょうか。
そのためか、“葛西氏が先祖の事跡を誇るために、後世になってから言い出した役職である”とみなす説もあるようです。
守護のいない国の留守職が留守氏となり
また、守護がいない国に任じられる「留守職」の中で、東北に任じられた人を奥州総奉行の後任とみなす向きもあります。
こちらの初代は伊沢家景という人で、元は公家の藤原氏に仕えていました。
頼朝の舅(北条政子の父)である北条時政が京都守護(後述)をやっていた頃、「お前(伊沢家景)は仕事がデキる奴だから、いっそ朝廷より幕府に仕えないか」と誘われ、はるばる東国にやってきたという、ちょっと変わった経歴を持っています。
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鎌倉ならともかく、まさか東北に行くことになるとは思っていなかったでしょうね。
上流階級ではなかったからこそ、順応性が高かったのでしょうか。
家景は現在の宮城県多賀城市を拠点とし、真面目に仕事をやって信頼を得て、三代将軍・源実朝の代まで留守職を務めました。
ちなみに、彼の子孫が後に留守氏を名乗るようになります。
まんまですが、由緒がうかがえる名字ですね。
留守氏では、伊達政宗の叔父で留守氏の養子になった留守政景が有名でしょうか。
北の関ヶ原こと【慶長出羽合戦】という大きな合戦で起きた【長谷堂城の戦い】などに参加しています。
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