慶長五年(1600年)9月21日、石田三成が自身の領地内で捕らえられました。
関ヶ原の戦いが起きた15日から6日間の逃亡劇というと現代では短く感じるかもしれませんが、当時の状況からすると一人でよくやったもんだという見方もできそうです。
三成は実質西軍の大将でしたから、その首を挙げなければ戦の始末がついたことになりません。
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東軍の将兵は文字通り血眼になって探したことでしょう。
加えて、この時代、戦が終われば農民も追っ手に加わります。
戦となれば田畑を避けるわけにもいきませんからめちゃくちゃになるのは当然ですし、戦果に酔った勝ち手側の軍が村を襲って略奪するのも当然とされていました。
その仕返しとして、農民が敗軍の将を襲うというのも当たり前のこと。
さらには、勝ち馬に乗ったことにしないと「敵」と見なされて攻撃されかねないので、農民だって落ち武者狩りに必死だったのです。
あの明智光秀の死因も、小栗栖で農民の落ち武者狩りに遭ったからだとされていますよね。
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ズタボロの身でそれでも佐和山城を目指す
当然、三成もその状況はわかっています。
ゆえに死に物狂いで逃げました。
大河ドラマ『天地人』では小栗旬さん演じる三成がかなりボロボロになっていましたね。
史実でも木こりの姿に身をやつし、関ヶ原の戦中から酷くなっていた下痢と闘いつつ――という壮絶な状況だったとも伝わります。
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普段のようにきちんとした食事も取れませんし、生水も飲んでいたでしょう。
ストレスと飲食状態の悪さで、体調は一気に悪化したに違いありません。
「畑で動けなくなっているところを付近の村人に助けられた」というエピソードもあるくらいです。
それでも三成は逃げに逃げ続けます。
どんなルートを辿ったのか。
はっきりしたことは今もわかっていません。
疲労困憊の本人も覚えていないかもしれませんし、以下に記す逸話も色々な伝承が混じっております。
衣食住よりも「家康の首が欲しい」
ともかく三成は、再起を信じて逃げた。
琵琶湖沿岸の本拠地・佐和山城(滋賀県彦根市)を目指していたことは確かでしょう。
そのため、まずは伊吹山を越えたとされます。
9月とはいえ旧暦ですし、古くはヤマトタケルが伊吹山に失敗したことが原因で死亡するほどの山です。
ただ、そこを越えれば佐和山城も近い。
ところが、佐和山城より北にある法華寺三珠院(さんじゅいん)というお寺に逃げ込みます。
自分の生まれ故郷の長浜市木之本にあり、幼い頃には勉強を教えてもらった寺でしたので、信頼できると思ったのでしょう。
ボロボロの姿で現れた三成に対し、住職は「まず何が欲しいですか」と尋ねました。
食べ物か、着るものか。この場面では、そう考えるのが普通でしょう。
ところが三成は「家康の首がほしい」と答えたと言います。
前々から大谷吉継はじめ多くの人に
「お前じゃ勝てないからやめとけ」
と言われ、その通りに大敗北した後の台詞とは思えません。
ここまで来ると、もはや崇敬の念すら生まれてきますよね。
しかし、です。
一息ついたところで、褒賞に目が眩んだ一部の村人により、三成の居場所が東軍側に漏れてしまいました。
他の説として、命がけで助けてくれた村人がいて、彼にとばっちりが行かないようわざと敵に自分の居場所を教えさせた――というものもあります。
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