慶長5年(1600年)9月15日は、日本の戦国大名を東西真っ二つに切り裂いた【関ヶ原の戦い】が起きた日です。
東軍の総大将は徳川家康。
西軍は実質的に石田三成。
総勢20万を超えるともされる空前の規模の戦いであり、驚きだったのは決着スピードもそうでしょう。
これだけの大軍にもかかわらず、戦いはわずか半日で終了し、敗れた三成は伊吹山中へ落ち延び、数日後に捕らえられました。
と、惨めな最期を迎えてしまう西軍ですが、この戦いでは「三成のある病気が趨勢に影響したかもしれない」という要因があります。
今回のテーマは「三成腹(石田三成と下痢)」です。
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三献茶エピソードから見ると気遣いの人
石田三成は永禄3年(1560年)の近江生まれ。
天正2年(1577年)頃から父・兄と共に羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕え始めました。
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奉公前の三成がまだ寺の小僧だった頃、当時、長浜城主である秀吉に3杯のお茶を出した逸話は戦国ファンには大変有名でしょう。
鷹狩りでノドが乾いていた秀吉が寺に立ち寄った際、最初はぬるいお茶、次にやや熱いお茶、そして最後に熱いお茶を出し、その細やかな心遣いを買われた――というものです。
後に加藤清正などと揉めることを考えると、このときの気遣いはドコいった?と言いたくなってしまいますし、そもそも三献の茶エピソードが事実ではない……というのはさておき。
秀吉の側近として頭角を現した三成は、その後【太閤検地】や【刀狩り】などの政策を立案実行。
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文禄4年(1595年)には秀吉から近江佐和山19万4,000石を与えられ大名としても出世しております。
ただ、イメージとしては凄腕の官僚ってところでしょうか。
実際、五奉行の一人ですしね。
【豊臣政権の五奉行】
浅野長政
石田三成
長束正家
増田長盛
前田玄以
一方で戦場での槍働きがイマイチとされていて、脳筋バリバリな武将には嫌われており、特に朝鮮出兵では現場との意見が折り合わず、加藤清正らとの対立関係は非常に根深いものとなってしまいました。
日大早川先生の説では「過敏性腸症候群」が疑わしい
秀吉の死後、家康に睨みを利かせていた前田利家が亡くなると、三成は清正や福島正則などの武断派に襲われ、それを契機に五奉行引退へと追い込まれます。
しかし、慶長5年(1600年)7月に家康の会津征伐がはじまると、弾劾状を出して家康に戦線布告、かくして天下分け目【関ヶ原の戦い】がはじまるのでした。じゃじゃじゃーん。
結果、毛利は動かず、小早川秀秋は裏切り、脇坂なんかの四武将も寝返って、西軍は一日で惨敗。
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このときの敗因の一つに
「三成がお腹を壊していたから」
というコトも考えられる――というのが前述の通り本稿のテーマですね。
関ヶ原当時40歳の三成は、親友の大谷吉継と違い、特に持病があったような記録はございません。
ただ、合戦前日からお腹の調子は悪かったようで。
この場合、最も疑わしいのは食中毒ですが、あの三成が大事な合戦の前に当たりそうなものを食べるとは思えません。
普段いい加減な私ですら国家試験の数日前からは刺身などの生モノを避け、暴飲暴食をせずその日に備えました。
では、三成が下痢をした原因はなんでしょうか?
日本大学の早川智先生の説では「過敏性腸症候群」が疑わしいとのことです。
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