平和であった江戸時代の大名にも「敵」はたくさん存在しました。
隙あらば改易や領地削減を狙ってくる幕閣も見方によっては敵ですし、いつ襲われるとも知れぬ天災や人災もそうでしょう。
中でも一番厄介なのが、本来であれば味方であるはずの家臣や身内でして……。
元和五年(1619年)9月15日は、磐城平藩主・内藤義概(よしむね)が誕生した日です。
磐城平藩は現在の福島県南東部、浜通りと呼ばれる地域にあった藩でした。
平安時代から岩城氏という家が治めていたのですが、関ヶ原の戦いで西軍についたため、領地を没収されています。
その後、徳川家の信頼厚い内藤家が治めることになるのですけれども……その中で、義概に始まる三代目の時代に【小姓騒動(松賀騒動)】と呼ばれるお家騒動が起きました。
本日は、この大騒ぎについて見ていきましょう。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
松賀族之助のゲスすぎる計画
若いころの義概は、防風林を作ったり、神社仏閣の再建に貢献したりと、なかなかの名君でした。
プライベートでは和歌や音楽を好む文化人でもあり、趣味の良い大名という感じですね。
が、義概は年をとるにつれ、仕事よりも趣味にのめりこむようになっていきます。
小姓から家老にまでのし上がった松賀族之助(まつがやからのすけ)に藩政を任せきり、他の家臣たちと接触しようともしませんでした。この時点でイヤな予感がしますね。
族之助は調子に乗って、重税を強いるなどの悪政を行います。
むろん義概には一向にバレません。それだけでなく既に妊娠している自分の妻を、義概の側室に差し出そうとするのです。
妊娠を伏せておけば、自分の子供が藩主の子供として生まれてくるわけですから、完全にお家を乗っ取れるからです。絵に描いたようなゲスい計画ですね。
しかし、このとき義概は60歳前後。
当然、跡継ぎになるべき男子はすでにおります。長男の義邦は早世してしまいましたが、次男の義英と三男の義孝が存命でした。
族之助が自らの子供を藩主にするためには、この二人をどうにかしないといけません。それがまた、ゲスいヤリ方でした。
別の小姓たちに目論見を暴かれ→小姓騒動
族之助は、まず年長の義英を酒色に溺れさせて始末しようとしました。
が、義英は乗りません。
族之助は歯噛みしながら、今度は義概に「義英が義孝を殺そうとしている」と讒言し、義英を廃嫡させます。
義孝のほうが弟ですが、年をとってからできた子供だったので、義概は日頃から義孝のほうを溺愛していたのです。
耄碌しているとはいえ、藩主は藩主で世子は世子。
もっともらしい理由があれば、命令に従わざるをえません。義英はおとなしく従って幽閉されました。
こうして一つずつ障害を取り除き、ご満悦になりつつあった族之助でしたが、ついに年貢の納め時がやってきます。
延宝八年(1680年)4月、「族之助の野郎、いつまでも調子に乗りやがって!」とキレた小姓たちが、族之助の腹心である山井八郎右衛門夫婦をブッコロしたのです。
解決のきっかけになったのがこの勇気ある小姓たちだったから【小姓騒動】なんですね。
族之助も小姓出身というのが何とも皮肉なものですが。
これによって族之助の悪巧みは頓挫し、義英の幽閉は解かれました。
しかし、義英はすっかり政治や藩主の座が嫌になっていたのか。
「私はいいから、義孝が父上の跡を継ぐがいい」と、江戸で隠居生活に入ります。
義英は父に似て俳句を得意としており、松尾芭蕉などとも交友があったため、案外退屈はしなかったかもしれません。
※以下は松尾芭蕉の関連記事となります
俳人の前は帳簿の仕事も?松尾芭蕉の知られざる生涯51年まとめ
続きを見る
宝井其角(たからいきかく)の紹介で芭蕉とも会うことができ、門人になったと言います。
雨乞い儀式の横を通った宝井其角 僧侶と間違われ一句→マジで雨
続きを見る
これにて一件落着……といきたいところですが、実はまだこの話は続きます。
※続きは【次のページへ】をclick!