「誰か一人、江戸時代の文化人を挙げて!」
なんて言われたら、皆さんは、どなたを思い浮かべます?
主観バリバリで言わせて貰いますと、最も多いのは
ではないでしょうか?
俳句の大家として知られ、紀行録『おくのほそ道』は今なお日本人に多くの影響を与えており、「旅に生きた人」としても有名ですが、生涯そのものも旅のようでした。
ただし、前半生は「やむを得ず」旅をしていて、後半生は「自ら望んで」旅立っているというイメージでしょうか。
本稿では、元禄7年(1694年)10月12日が命日である、芭蕉の知られざる生涯を振り返ってみましょう。
※名前については「芭蕉」で統一させていただきます
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松尾芭蕉の両親は平家と忍者の末裔だった!?
芭蕉は正保元年(1644年)、伊賀上野にて生誕。二男四女の次男でした。
父方は平家末裔の家柄ともされていますが、身分は高くないのであまり関係はなさそうです。
名字帯刀は許されていたようです。
また、母が忍者で有名な百地氏の出身だったため、これを「芭蕉忍者説(隠密説)」の根拠とする人もいるとか、いないとか。
忍者の血統らしいというだけで本人=忍者ってのは、さすがにチョット強引。まぁ、ありえないでしょう。
その辺はさておき、芭蕉は若い頃からけっこう苦労をしていました。
彼が13歳の時に父が亡くなり、兄が家督を継いだものの、暮らし向きは決して豊かではなかったからです。
六人きょうだいのうち四人が姉妹、さらに母親も養わねばならない――となると男二人でもシンドイですよね。
元の身分が高くないこともあってか、芭蕉が初めて主人を持ったとき、文学やその他学問に関するためではなく、台所の小間使いのようなことをしていたといわれています。
なんという才能の無駄遣い……というのも後の活躍を知っているからですな。
主人とは、伊賀の侍大将・藤堂良清の跡継ぎで藤堂良忠という人でした。
芭蕉より2歳年上で、この人が俳句を得意としていたため、芭蕉も俳諧の世界に入ったようです。
良忠の俳号は「蝉吟(せんぎん)」といいました。
歳の近い主人に真面目に仕え、趣味も同じにして親しくなれば、士分に取り立ててもらえるかも……。後年になって、そのような発言をしていたようです。
最も古い作品は1662年の小晦日
なにはともあれ、良忠に仕えたことが、芭蕉が俳諧を始めるきっかけにもなったことは間違いありません。
寛文二年(1662年)の末、立春をお題としてこんな句を読み、二年後に入集(にっしゅう)しました。
「春や来し 年や行けん 小晦日(はるやこし としやゆきけん こつごもり)」
現在わかっている中では、芭蕉の最も古い作品です。
口に出してみるとちょっとつっかえるような、未熟さを感じられるような気もしますね(個人の感想です、生意気でサーセン)。
この句をきっかけに、芭蕉はいくつかの俳句集に入集するするようになり、俳人として歩み始めました。
寛文六年(1666年)には、芭蕉が参加した中で最古とされる連句も記録されています。
「貞徳翁十三回忌追善百韻俳諧」と呼ばれるもので、松永貞徳という俳人への供養を目的としたものです。
松永は、芭蕉の主人である藤堂良忠(蝉吟)の師匠の一人と考えられている人物です。
蝉吟が発句し、別の師匠である北村季吟も参加。
若き日の芭蕉は、先達や主君の間に立ち交じれて、晴れがましく思ったことでしょう。
しかしこの年、蝉吟が24歳の若さで亡くなるという、悲しい出来事にも遭遇しました。
芭蕉は、遺髪を高野山報恩院に納める一団に参加。
主人の菩提を弔った後、職を辞して俳人として行きていくことを決めたようです。
単なる主人だけでなく、同好の士でもあり、そして士官の糸口になり得る人を失い、途方に暮れたことでしょう。
処女句集「貝おほひ」を奉納後、江戸へ
しばらくは伊賀上野あたりに住み続けた芭蕉。
ときに京都の俳人に教えを受けたり、句集に選ばれたりしていました。
寛文十二年(1672年)。
数年してようやく考えがまとまったのか、処女句集「貝おほひ」を上野天神宮(三重県伊賀市)に奉納し、俳諧師として江戸へ下ります。
ところが、です。
地元で多少名前が知られるようになっても、江戸ではそう簡単には行かなかったようで、再び上京。
蝉吟の師匠だった北村季吟に師事し、延宝二年(1674年)三月に作法書『俳諧埋木』の伝授を受けました。
これでようやく一人前と認められたワケです。意地悪く考えると、この時点で芭蕉の句には、まだまだ改善すべきところが多かったのかもしれません。
延宝三年(1675年)あたりから再び江戸へ出向きます。
詳細な住処はハッキリとしておりません。
江戸の俳人と交流を持ち、彼らのパトロンだった磐城平藩主(いわきたいらはんしゅ)・内藤義概(ないとう よしむね)の江戸屋敷へ出入りするようになった、ということはわかっています。
この内藤義概という人は、小姓騒動というお家騒動の当事者として知られています。
詳細については以下の記事に譲るとして、
ゲス侍・松賀族之助と小姓騒動が酷い~自身の妊婦妻を献上し御家乗っ取りを画策
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パトロンとしては悪くありませんでした。
少なくとも、芭蕉にとっては一つの契機になりました。
ここで芭蕉は、意気投合した俳人と一緒に俳句集を刊行し、華々しく江戸俳壇にデビューすることができたからです。
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