松尾芭蕉(葛飾北斎画)/wikipediaより引用

江戸時代

俳人の前は帳簿の仕事もしていた?俳聖・松尾芭蕉の知られざる生涯51年まとめ

「誰か一人、江戸時代の文化人を挙げて!」

なんて言われたら、皆さんは、どなたを思い浮かべます?

主観バリバリで言わせて貰いますと、最も多いのは

松尾芭蕉

ではないでしょうか?

俳句の大家として知られ、紀行録『おくのほそ道』は今なお日本人に多くの影響を与えており、「旅に生きた人」としても有名ですが、生涯そのものも旅のようでした。

ただし、前半生は「やむを得ず」旅をしていて、後半生は「自ら望んで」旅立っているというイメージでしょうか。

本稿では、元禄7年(1694年)10月12日が命日である、芭蕉の知られざる生涯を振り返ってみましょう。

※名前については「芭蕉」で統一させていただきます

松尾芭蕉(葛飾北斎画)/wikipediaより引用

 


松尾芭蕉の両親は平家と忍者の末裔だった!?

芭蕉は正保元年(1644年)、伊賀上野にて生誕。二男四女の次男でした。

父方は平家末裔の家柄ともされていますが、身分は高くないのであまり関係はなさそうです。

名字帯刀は許されていたようです。

また、母が忍者で有名な百地氏の出身だったため、これを「芭蕉忍者説(隠密説)」の根拠とする人もいるとか、いないとか。

忍者の血統らしいというだけで本人=忍者ってのは、さすがにチョット強引。まぁ、ありえないでしょう。

その辺はさておき、芭蕉は若い頃からけっこう苦労をしていました。

彼が13歳の時に父が亡くなり、兄が家督を継いだものの、暮らし向きは決して豊かではなかったからです。

六人きょうだいのうち四人が姉妹、さらに母親も養わねばならない――となると男二人でもシンドイですよね。

元の身分が高くないこともあってか、芭蕉が初めて主人を持ったとき、文学やその他学問に関するためではなく、台所の小間使いのようなことをしていたといわれています。

なんという才能の無駄遣い……というのも後の活躍を知っているからですな。

主人とは、伊賀の侍大将・藤堂良清の跡継ぎで藤堂良忠という人でした。

芭蕉より2歳年上で、この人が俳句を得意としていたため、芭蕉も俳諧の世界に入ったようです。

良忠の俳号は「蝉吟(せんぎん)」といいました。

歳の近い主人に真面目に仕え、趣味も同じにして親しくなれば、士分に取り立ててもらえるかも……。後年になって、そのような発言をしていたようです。

 


最も古い作品は1662年の小晦日

なにはともあれ、良忠に仕えたことが、芭蕉が俳諧を始めるきっかけにもなったことは間違いありません。

寛文二年(1662年)の末、立春をお題としてこんな句を読み、二年後に入集(にっしゅう)しました。

「春や来し 年や行けん 小晦日(はるやこし としやゆきけん こつごもり)」

現在わかっている中では、芭蕉の最も古い作品です。

口に出してみるとちょっとつっかえるような、未熟さを感じられるような気もしますね(個人の感想です、生意気でサーセン)。

この句をきっかけに、芭蕉はいくつかの俳句集に入集するするようになり、俳人として歩み始めました。

寛文六年(1666年)には、芭蕉が参加した中で最古とされる連句も記録されています。

「貞徳翁十三回忌追善百韻俳諧」と呼ばれるもので、松永貞徳という俳人への供養を目的としたものです。

松永は、芭蕉の主人である藤堂良忠(蝉吟)の師匠の一人と考えられている人物です。

蝉吟が発句し、別の師匠である北村季吟も参加。

若き日の芭蕉は、先達や主君の間に立ち交じれて、晴れがましく思ったことでしょう。

しかしこの年、蝉吟が24歳の若さで亡くなるという、悲しい出来事にも遭遇しました。

芭蕉は、遺髪を高野山報恩院に納める一団に参加。

主人の菩提を弔った後、職を辞して俳人として行きていくことを決めたようです。

単なる主人だけでなく、同好の士でもあり、そして士官の糸口になり得る人を失い、途方に暮れたことでしょう。

 


処女句集「貝おほひ」を奉納後、江戸へ

しばらくは伊賀上野あたりに住み続けた芭蕉。

ときに京都の俳人に教えを受けたり、句集に選ばれたりしていました。

寛文十二年(1672年)。

数年してようやく考えがまとまったのか、処女句集「貝おほひ」を上野天神宮(三重県伊賀市)に奉納し、俳諧師として江戸へ下ります。

ところが、です。

地元で多少名前が知られるようになっても、江戸ではそう簡単には行かなかったようで、再び上京。

蝉吟の師匠だった北村季吟に師事し、延宝二年(1674年)三月に作法書『俳諧埋木』の伝授を受けました。

これでようやく一人前と認められたワケです。意地悪く考えると、この時点で芭蕉の句には、まだまだ改善すべきところが多かったのかもしれません。

延宝三年(1675年)あたりから再び江戸へ出向きます。

詳細な住処はハッキリとしておりません。

江戸の俳人と交流を持ち、彼らのパトロンだった磐城平藩主(いわきたいらはんしゅ)・内藤義概(ないとう よしむね)の江戸屋敷へ出入りするようになった、ということはわかっています。

この内藤義概という人は、小姓騒動というお家騒動の当事者として知られています。

詳細については以下の記事に譲るとして、

松賀族之助と小姓騒動
ゲス侍・松賀族之助と小姓騒動が酷い~自身の妊婦妻を献上し御家乗っ取りを画策

続きを見る

パトロンとしては悪くありませんでした。

少なくとも、芭蕉にとっては一つの契機になりました。

ここで芭蕉は、意気投合した俳人と一緒に俳句集を刊行し、華々しく江戸俳壇にデビューすることができたからです。

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