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【三成の逃亡生活六日間】
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元同僚の田中吉政に捕縛され
どちらが真実か。
詳細は不明ですが、この報告を受けたのは旧知の仲で元・豊臣秀吉の側近だった田中吉政という武将です。
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【佐和山城の戦い】にも参加して落城させたばかりで、後ろめたく思っていたのかもしれません。
三成が会ったことのある人間を捕縛に向かわせたり、「腹の調子が悪い」と聞いては腹痛に効くといわれていたニラ粥を用意してやったり、細かく世話を焼いています。
これは吉政の策略という説もありますが、三成も「お前に捕まるならまだマシだ」と言って、形見と称して刀をあげた――なんて話も伝わっていますので、少なくとも三成から見た吉政は信頼の置ける人物だったのでしょう。
結局、捕縛されたのは伊吹山中でした。
六条河原で処刑
三成はこの後、同年10月1日に京都の六条河原で処刑されます。
敗軍の将が避けられないこととはいえ、誰か助命嘆願くらいはしてあげてもいいんじゃないかという気がするのですが、残念ながらそうした記録は見つかっていません。
立花宗茂や毛利秀元のように「まだオレたちは戦えます!」と言ってくれた人はいましたが、(本来の)西軍総大将・毛利輝元がさっさと大阪城から出てしまったので、再戦は叶いませんでした。
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もし三成が最初から佐和山城ではなく、大坂城を目指していて、無事に入城できていたらまた歴史が変わっていたのかもしれませんね。
島津のように敵中突破するなどの豪胆さを見せていたら……。そんなに豪胆だったら、そもそも最初から勝っているか。
なお、三成が必死の思いで目指していた本拠地・佐和山城は、9月18日に陥落しておりました。
もちろん徳川家康に攻められたからですが、戦闘に参加したメンツがかなりキツい。
小早川秀秋をはじめとした関ヶ原の裏切り者達だったのです。
以下に詳細がございますので、よろしければ併せてご覧ください。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
澤宮優『戦国廃城紀行 敗者の城を探る』(→amazon)
三池純正『義に生きたもう一人の武将 石田三成』(→amazon)