浜松市文化遺産デジタルアーカイブ「武田二十四将図」の原虎胤

浜松市文化遺産デジタルアーカイブ「武田二十四将図」より

武田・上杉家

傷だらけの猛将・原虎胤|信玄に信頼され武田軍を支えた不屈の生涯とは?

武田四天王や武田二十四将など。

数多の個性豊かな戦国武将が揃ったことで、フィクションでも大人気の甲斐武田氏。

その中でも武田きっての猛将として印象深いのが原虎胤ではないでしょうか。

1988年の大河ドラマ『武田信玄』では宍戸錠さんが演じ、2007年の『風林火山』ではその息子である宍戸開さんが演じて話題になりましたが、史実の原虎胤も両者の迫力に負けない実績の持ち主。

実に38回もの合戦に参加し、全身に53か所もの傷があったともされています。

馬場信春や本多忠勝のように「無傷」の勲章も素晴らしいですが、傷だらけの武将というのもやはり痺れてしまう。

浜松市文化遺産デジタルアーカイブ「武田二十四将図」の原虎胤

浜松市文化遺産デジタルアーカイブ「武田二十四将図」より

では原虎胤とは実際、どんな武将だったのか?

その生涯を振り返ってみましょう。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

 

下総出身 先祖は平将門?

原虎胤は、戦国武将としては割と出自が明らかなほうです。

生まれは明応六年(1497年)で、父の名前は原友胤。

甲斐の出身……ではなく、下総の国衆・臼井(うすい)原氏の一門とされ、先祖を辿れば平将門に行き着くとされます。

将門は桓武平氏ですので、事実であれば虎胤も桓武平氏の一員となりますね。

下総は現在の千葉県北部~茨城県南西部ですから、山梨県からは割と離れた土地です。

それがなぜ信玄のもとへやってきたのか?

武田信玄の肖像

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用

実は出自よりも、虎胤が甲斐へやってきた経緯のほうが謎に包まれていまして、『甲斐国志』では以下のように記されています。

「永正十年(1513年)、小弓公方・足利義明が小弓城(千葉市中央区)を攻めたとき、城方に友胤と虎胤が敗れ、甲斐まで流れてやってきた」

しかしこの一件は永正十四年(1517年)に起きていて、時期が合いません。

『甲斐国志』は江戸時代後期の文化十一年(1814年)に成立した本ですので、単なる誤植かもしれませんが、いずれにせよ信憑性は落ちてしまいます。

また『名将言行録』には、こう記されています。

信濃の軍が韮崎(にらさき)まで侵攻してきたとき、虎胤が地元の農民・商人に竹槍を保たせて指揮し、防衛した。

『名将言行録』もまた創作の可能性が高いですが、話の内容からして領民からの支持は高かったのかもしれません。

いずれにせよ鵜呑みにはできないものです。

『甲陽軍鑑』によると騎馬35・足軽100人を預かったとされ、数々の戦歴があることは間違いなさそうですが、史料上の所見は天文十二年(1543年)3月23日のこと。

虎胤の配下の者を駒井高白斎が引き連れたという記録が残されています。

天文十九年(1550年)には、横田高松(たかとし)や大井信常と共に戸石城攻めに参加しました。

横田高松の肖像

横田高松/wikipediaより引用

以前から、虎胤の息子が高松の養子になっていて、当時20歳の実の息子・横田康景も戸石城攻めに加わっていました。

このことからして、虎胤は享禄二年(1529年)までに結婚していたはずです。

大雑把に見積もって、永正年間の後半(1513~21年)に甲斐へ来ていたと考えれば妥当でしょうか。

 


争奪戦となった平瀬城を任され

原虎胤は、武田信玄からの信頼も得ていて、信濃の平瀬城(松本市)を任されたこともありました。

信濃守護家だった小笠原長時との間で争奪戦になった城ですから、相応の武勇と人柄が揃ってなければ選ばれなかったでしょう。

平瀬城跡/wikipediaより引用

しかし天文二十二年(1553年)頃、虎胤は、なぜか甲斐を出て北条氏康に鞍替えしていた時期があります。

理由は定かではありません。

彼が熱心な日蓮宗の信徒だったことが影響したのかもしれません。

日蓮宗と浄土宗の宗論が起きたとき法度を無視して宗論に参加したとか、虎胤が日蓮宗の寺の肩を持ったために追放されたとか、信玄が浄土宗への改宗を迫ったが拒否したとか、宗教がらみのいろいろな理由が伝えられています。

いったい何が事実なのか。

答えは判然としませんが、虎胤の信仰心の厚さはなんとなくわかりますね。

翌天文二十三年(1554年)には甲斐へ戻り、再び信玄に仕えたとされます。

『名将言行録』では4年後とされていて、帰参の時期についてははっきりしていません。

これまた『名将言行録』での話ですが、北条氏にいた間も武田氏との戦には出ず、今川氏との戦いにだけ加わったとか。

果たしてそれが許されたのかどうか疑問ですが……虎胤が律儀な人だったことが伝わったのかもしれません。

 

「平朝臣原美濃入道所持之」

帰参の後はわだかまりもなかったようで、永禄二年(1559年)2月、武田晴信から出家して信玄と名を改めたとき、虎胤も出家しました。

虎胤が所持していたとされる刀に永禄二年二月吉日の日付があり、

「平朝臣原美濃入道所持之」

という記載もあるため信憑性は高いですね。

法号は「清岩」といいます。敬虔さと意志の強さを感じさせますね。

その後も信玄と共に戦に参加し続けます。

永禄四年(1561年)には上杉方の割ヶ岳城(上水内郡)で負傷したとされます。

この戦は上杉謙信が関東へ行っている隙をついたものでしたが、画像を拝見する限り、いかにも手強そうな山城ですので負傷も仕方なかったのかもしれません。

割ヶ嶽城主郭部/wikipediaより引用

『甲陽軍鑑』では、この傷により、直後の第四次川中島の戦いに虎胤が不参戦だったとなっています。

さらにその代理として参戦したのが、かの有名な山本勘助だったとも。

武田家の武将や歴史も色々と繋がっていますね。

山本勘助の肖像画

山本勘助/wikipediaより引用

 

馬場信春に「美濃守」を?

原虎胤はその3年後、永禄七年(1564年)に亡くなったとされます。

享年68。

前述の通り、虎胤は38回もの戦に参加し、全身に53か所もの傷があったといわれています。

死因は不明ながら、これだけ激しく合戦に赴いていますと、割ヶ岳城ではなく他の傷から死に至った可能性も考えられそうですね。

虎胤の死後、信玄は馬場信春に「美濃守」の受領名を与えたとされますが、信春はそれ以前、永禄二年(1559年)9月から美濃守を称しているため、これまた時期が合いません。

虎胤は割ヶ岳城の戦い以降前線に出ていないようですので、虎胤の没年が永禄二年より前であれば、一応辻褄が合うのですが……。

馬場信春の肖像画

馬場信春(教来石景政)/wikipediaより引用

その後、虎胤の跡を継いだ次男・原盛胤は他の多くの武田家臣同様、長篠の戦いで討死しました。

しかし三男の原重胤が生き残り、武田滅亡後は真田氏に仕えて戦国を生き延びたとされます。

さらにその子孫が江戸時代に入って酒屋を始め、現在も千曲錦酒造株式会社として続いているのだとか。

戦国時代を生き延びただけでなく、家業が数百年以上続いているなんて、凄まじい偉業ですね。

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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