望月千代女

武田・上杉家

武田と徳川で暗躍する望月千代女は実在したか?どうする家康古川琴音

大河ドラマ『どうする家康』で古川琴音さん演じる千代が、劇中で重要なキーパーソンになっています。

武田信玄が存命の頃は、その側にいて徳川の背後で暗躍。

三河一揆の扇動をしたり、家臣を調略しようとしたり、一体何者なんだ? 史実のモデルは誰なんだ?

と、視聴者がザワつき始めた頃にドラマ内で正体が明かされ、こんなニュースも出ました。

◆ 「どうする家康」一向一揆扇動の巫女の正体にネット沸く FGOファンも「嬉しい」(→link

歩き巫女でありながら、武田の“くノ一(女忍者)”でもあった千代。

『FGO』という人気ゲームにも登場する望月千代女望月千代)と重なってニュースの話題にもなったのです。

大々的に扱われてドラマの制作サイドとしては狙い通りかもしれませんが、同時に懸念も湧いてきます。

そもそも実在を疑われる望月千代女をあのように描いたら、誤解する視聴者も多いのではないか?

確かに、信濃に望月氏という国衆は存在していて、武田信玄とも関係の深い一族でしたが、彼女の存在が記された確かな史料はありません。

にもかかわらず今年の大河ではあそこまで大きな存在となってしまっている。

一体どういうことなのか?

戦国時代の望月氏の動向を確認しながら、望月千代女を考察してみましょう。

 

信濃国衆の望月氏とは

前述の通り、戦国時代の望月氏は信濃国衆の一つ。

戦国争乱の最中である天文10年(1541年)に諏訪頼重・武田信虎村上義清らから攻撃され、以降は村上氏に従いました。

諏訪頼重は、後に武田信玄に自害へ追いやられた諏訪氏の当主であり、村上義清はその信玄を二度も撃破しながら最終的に信濃を追い出されて、越後の上杉謙信(長尾景虎)を頼った武将です。

そして武田信虎は、ご存知、信玄の実父で甲斐武田の15代当主ですが、この合戦後の天文10年(1541年)6月、駿河へ追放されています。

新たに武田を動かすことになったのが当時は武田晴信だった信玄。

天文12年(1543年)に再び望月氏を攻撃すると、同家では没落した望月昌頼に代わり、望月信雅(のぶまさ)が親武田の当主となりました。

このとき望月氏と武田氏の間を取り持ったとされるのが同じ信濃の国衆・真田幸綱(幸隆)です。

真田昌幸の父であり、真田信繁(幸村)の祖父ですね。

※以下は真田幸綱の関連記事となります

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望月信雅は、信玄の弟である武田信繁の長男・武田義勝を養子としました。

つまり信玄の甥が望月氏に入り、さらには次期当主の望月信頼となります。

ただし、彼は永禄4年(1561年)に急逝するため、今度は武田信繁の三男が望月信永(のぶなが)となり家督を継ぎました。

時計の針を一気に進めて、天正3年(1575年)。

望月信永が【長篠の戦い】で討死をすると、今度は武田信豊(武田信繁の二男)の娘に婿を取り、望月当主とすることが決められました。

すでに信玄は亡くなっており、信濃における支配強化に武田が必死な様子が浮かび上がってきますね。

ところが、です。

その取り決めが実現する前の天正10年(1582年)に肝心の武田が滅亡に追い込まれ、さらには本能寺の変織田信長が亡くなると、旧武田領は徳川・北条・上杉・真田での奪い合いが始まりました。

天正壬午の乱】と呼ばれ、周囲の強国と地元の国衆たちで激しい勢力争いが行われたのです。

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望月氏は、この争乱を無事に生き抜き、以降は佐久郡を支配した依田信蕃(よだ のぶしげ)に従いました。

そして徳川氏に仕えたとされます。

では望月千代女は、一体、どの世代に関わりがあるとされるのか?

彼女の夫とされるのが望月盛時。

しかし、この盛時からして詳細不明であり、武田に従い始めた望月信雅の父とされることがある存在です。

望月盛時は永禄4年(1561年)の【第四次川中島合戦】で没したとされ、その妻である千代は若く艶かしい女性として表現されることが多い。

盛時の享年が60手前だとすると、たとえ千代が後妻でも、そこまで若くない可能性は高いのですが……とにかく何から何まで不可解な状況。

望月氏の当主にしても、望月昌頼から望月信雅に遷移したとされ、望月盛時はハッキリとは出てきません。

むしろ「望月千代女の夫」として登場することが多い、かなり怪しい状況です。

 

千代は「くノ一」だったのか?

望月千代女は信濃の歩き巫女となり、同時に「くノ一」としての活動も行った――そう説明したいところですが、名前からして引っかかります。

望月盛時の妻だから「望月千代」として、違和感がないのは現代人の感覚。

源頼朝の妻が北条政子であるように、戦国時代ならば「実家の姓+千代」になる方が自然です。

しかしこの「望月」であることこそ、彼女をくノ一と結びつけた大きな要因であることが推察できます。

どういうことか?

望月氏は、武田の家臣だけでなく、真田家臣として仕えた者もいます。

最も知名度が高い人物が、望月六郎でしょう。

幼少期から真田幸村に仕えた「真田十勇士」の一人であり、爆弾製造を得意とする――というのは当然ながらフィクションの話であり、真田十勇士そのものは明治末から大正にかけての立川文庫作品で人気が爆発しました。

立川文庫とは、当時の講談を書き記した娯楽小説作品を指し、江戸時代以来の流れを汲んでいて、少年少女や、普段は難解な文学などあまり読まない層にも大ヒット。

そこから

望月といえば忍者だ――

というロマンが刷り込まれました。

そして望月千代女をくノ一(女忍者)であるとする説は、立川文庫ブームの後に発生します。

つまり彼女の経歴が生まれたのは以下のような流れとなるのです。

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