武田信繁

武田信繁(歌川国芳・作)/wikipediaより引用

武田・上杉家

武田信繁の生涯|理想の補佐役とされる信玄の実弟“古典厩”は川中島に散る

2024/09/09

戦国ゲーム『信長の野望』で甲斐・武田家を選ぶ場合、絶対に欠かせない武将を一人挙げるとすれば?

多くの方が、信玄の弟・武田信繁を選ぶのではないでしょうか。

合戦能力が高いだけでなく、政治や外交もこなし、決して裏切ることなく武田家を支えてくれる。

まさに万能武将の代表といった印象ですが、むろん、こうしたイメージはあくまでゲームや漫画での話。

実際のところ武田信繁という武将はどんな人物だったのか?

どんな事績があるのか?

武田信繁の浮世絵

武田信繁/wikipediaより引用

永禄4年(1561年)9月10日はその命日。

本記事で、信繁の生涯を振り返ってみましょう。

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父・信虎から将来を嘱望された次郎

大永5年(1525年)某日、甲斐を治める武田信虎と大井夫人との間に“次男”が生まれました。

長男である後の武田信玄は、その4年前の大永元年(1521年)に生誕。

武田信玄の肖像

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikimedia commons

つまりこの兄弟は父母ともに同じであり、二番目の男子は「次郎」と名付けられました。

武田信繁です。

戦国ゲームでも人気の武将であり、ドラマや漫画などのフィクションでは、この弟が描かれるとき定番の手法があります。

父の信虎に偏愛されるシーンです。

兄の信玄が理不尽なまでに虐げられる一方、弟は父から溺愛され、しまいには「家督相続も弟に!」などと信虎が言い始める。

それでも、聡明な弟は兄を慕い、武田家を支えていく――。

そんな展開ですが、こうした話は信玄が父の信虎を追放したことを正当化する、脚色の可能性が否定できません。

ややこしいのは、弟の信繁が、史実でも聡明かつ人格者であったことでしょう。

大河ドラマや『信長の野望』シリーズの顔グラフィックでも、兄よりも癖がなく、生真面目そうな佇まいが定番。

それでいて甲冑は兄に似せられる場合が多く、「理想の補佐役」として描かれる。

いざとなれば兄の代わりに矢面に立つ、そんな覚悟を持つ人物像でした。

 


典厩様こそ まことの副将よ

武田信繁は「典厩(てんきゅう)」という呼び名でも知られます。

典厩とは一体なんのことなのか?

そこで参考にしたいのが大河ドラマ『鎌倉殿の13人』――その劇中で「武衛(ぶえい)」という呼び方が話題になったのを覚えていらっしゃいますか?

源頼朝を「佐殿(すけどの)」と呼ぶことに抵抗がある上総広常に対し、三浦義村が「ならば、武衛(ぶえい)はどうだ? 友達という意味があるぞ」と提案したシーンです。

上総広常が、義村の助言を信じ、頼朝に「武衛」と語りかけ、ついには「みんな武衛だ!」とワイワイ言い始める。

上総広常の浮世絵

上総広常/wikimedia commons

しかし、これは義村による「嘘も方便」でした。

実は「佐殿」も「武衛」も同じ意味で「将軍」となる。

かつて河内源氏・源義朝の三男である源頼朝は、平治元年(1159年)平治の乱に際し、右兵衛権佐(うひょうえのごんのすけ)という官位に就いていました。

わずか15日で役を解かれ、伊豆へ流されてしまいますが、当時の坂東武者にとっては都からの貴公子であり、彼を崇める周囲は「右兵衛権佐」を意味する「佐殿」と呼びかけた。

この「佐殿」の「唐名」(とうみょう)が「武衛」なのです。

日本は律令国家の建設にあたり、当時、世界最大の大帝国だった「唐」を参照にしていて、官位名についても唐に倣い「唐名」をつけました。

つまりあの「武衛」という表現は、上総広常の無教養、三浦義村の狡猾さ、そして日本史における呼び方など、多くの要素を描いた秀逸な描写と言えるのです。

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話を武田信繁に戻しまして。

前述の通り、信繁には「典厩(てんきゅう)」という、よく知られた呼び名があります。

この「典厩」とは何なのか?

というと「左馬頭(さまのかみ)」の「唐名」にあたります。

左馬頭とは朝廷で厩(うまや)を管理する役目。

名門武家の武田家にふさわしい官名であり、かつ武田家中の教養も感じさせる。

『孫子』から「風林火山」を引用し、旗印にしていた家にふさわしい呼び名と言えましょう。

信繁は『武田信繁家訓』99ヶ条を残しており、『甲州法度之次第』を補うものと見なされています。

・主君への忠義

・礼儀作法

・文武に親しむこと

・神仏への向き合い方

・人付き合いの方法

などなど、きめ細やかに記されていたばかりでなく、文中には、四書五経をはじめとする漢籍引用も数多あります。

つまり同書には優れた教養があり、江戸時代になっても読み継がれたため、同時に武田信繁の人柄も賞賛の的となりました。

現代において人気が高いのも、元はと言えば江戸時代から続く影響なのでしょう。

そもそも武田家には信玄だけでなく、山本勘助など伝説的な人物が数多いて、徳川家康からも崇敬されるような武家でした。

優れた人柄や教養が武士の鑑とされた武田信繁も、そうした武将の一人だったのです。

 

兄を支え 御一門として武田を盛り立てる

信虎を追放後、若き当主となった武田信玄にとって、家族である御一門衆は非常に重要でした。

なんせ家臣たちの多くは父を支えた世代で、みな年上。

自分と年齢が近く、心から信頼できる弟・武田信繁は、他に代え難い稀有な存在です。

天文11年(1542年)からの諏訪攻めでも、板垣信方と並び、信繁が攻略を担いました。

板垣信方の肖像

板垣信方肖像画(恵林寺蔵・松本楓湖画・板垣退助揮毫/wikimedia commons

信玄に心から信頼され、かつ、性格的に頑固な一面もある板垣信方と共に行動させても問題ないからこその人選でしょう。

武田御一門としての役割は、戦だけではありません。

信濃攻略の際、武田の血筋を引く者が信濃佐久郡に養子として入ることとなりました。

このとき信繁の子である信頼と信永が選ばれたのです。

 

第四次川中島の戦い

南信濃を制圧し、北信濃へも進出していった武田家。

途中、村上義清に二度も敗れる苦い経験はあったものの、順調に北上を続け、いよいよ制圧――そんなあと一歩のところで立ちはだかったのが越後の上杉謙信です。

上杉謙信の肖像画

上杉謙信/wikimedia commons

合計五度の合戦をしたことで知られる【川中島の戦い】は、北信濃を巡る謙信との攻防戦であり、当然ながら武田信繁も出陣しています。

しかし、武田信繁に五度目はありません。

信玄の戦歴の中でも最も華々しく、そして最も苦い、第四次川中島の戦いで命を落としてしまうのです。

それは一体どんな戦いだったのか?

山本勘助など、数多の有力武将を失ったこの戦いは、フィクションでの誇張があまりに大きく、かえってわかりにくくなっている部分も多くあります。

その点を踏まえつつ、同合戦を振り返ってみましょう。

 


信繁の陣へ上杉軍の猛将たちが!

信玄を二度も撃退しておきながら、ついには信濃から越後へ追い出された村上義清。

上杉謙信に仕えると、戦国の頂上決戦、越後の龍と甲斐の虎の激突は不可避と言えました。

両国は、幾度かの対戦を経て永禄4年(1561年)――上杉謙信は1万3千の兵を率い、妻女山に布陣します。海津城に迫るためです。

対する信玄は2万の兵と共に出陣。

両軍の睨み合いが数日に及ぶ最中、武田軍では山本勘助の戦術が採用されます。

俗に「啄木鳥の戦法」と呼ばれる戦術であり、以下のような手順となります。

山本勘助と馬場信春が二手に分かれる

別働隊を妻女山に接近させる

夜明けに攻める

慌てて山を降りた上杉勢を、本隊が挟み撃ちにして勝利

啄木鳥が嘴で木を叩くと、虫が中から飛び出すことから名付けられた――と、伝説的に語られますが、膠着する事態を打開したかったことは間違いないでしょう。

山本勘助の肖像画

山本勘助/wikimedia commons

しかし、作戦とは何かのきっかけで失敗するものでもあります。

濃霧が立ち込め視界がハッキリしない中、作戦を察知した上杉勢は妻女山を降りてゆきます。

武田信繁はこのとき鶴翼の陣の左側。

まだ布陣が完全に整っていないところへ、突如、上杉家の誇る猛将、柿崎景家と新発田重家が押し寄せてきました!

800の兵を率いて、自ら槍をふるい、奮戦する信繁。

血みどろの戦いの中、本陣に目をやると、上杉勢はそこまで迫りそうな勢いです。

「我に挑むもの、誰ぞある!」

「おぉ、あれぞまことの勇士よ……いざ!」

兄を救うべく、身を捨ててでも的を引きつけようとした信繁。

天晴れな武者ぶりに、敵も感嘆しながら討つべく殺到します。

副将らしく前立てを煌めかせて、槍を振るい続けるも……大軍を前にして永遠に続くわけもなく、やがて力尽き、討死を遂げたのでした。

信玄は弟の遺骸を抱きしめると、号泣しました。

その姿を見て家臣団たちも「惜しむべき将を失った」ともらい泣きが止まらない。

結局、両軍互いに大きな損害を受けながら、その後も明確な決着は最後までつきませんでした。

 

信繁の名は真田を通して現代に轟く

武田の家臣団は、その後も折に触れて武田信繁のことを思い出しました。

信玄と対立した嫡子の義信が死を迎えたとき――もしも典厩様がおられたら、このようなことにはならなかったと嘆息する者もいたとか。

武田信玄という戦国時代屈指の名将は、兄弟で一心同体とも言えたのでしょう。

なまじ兄と事績がかぶるだけに、かえって目立たない信繁。

その不在により、重要性を示したとも言えます。

主君である武田信玄を敬愛していた信濃の国衆である真田昌幸も、武田信繁を慕い、惜しんだ一人でしょう。

真田昌幸の肖像画

真田昌幸/wikimedia commons

昌幸は、次男の諱を「信繁」としました。

真田幸村の名で知られる真田信繁であります。

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兄を支え、家を守って欲しいという切実な願いが、そこにはこめられたのでしょう。

真田昌幸の願いは、確かに叶えられました。

関ヶ原の戦いの折、兄と弟は二手に分かれますが、兄と弟はその後も支えあってそれぞれの道を歩んでゆきます。

兄の信之が真田を大名という実として残し、弟・信繁は勇猛果敢な武士として花のような名を残しました。

武田信繁は、若くして川中島に散ったものの、その芳名は残されたのです。

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【参考文献】
『武田氏家臣団人名事典』(→amazon
歴史読本『甲斐の虎 信玄と武田一族』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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