世の中には、想像以上に不思議な出来事が多いもの。
今回は、織田信長の本能寺の変と並び、戦国時代のミステリーに分類されそうな、とある事件について考えてみましょう。
永禄七年(1564年)7月5日。
上杉家の家臣である長尾政景と宇佐美定満(定行)が溺死するという不思議な事故がありました。
のっけから穏やかならぬ雰囲気が漂いますが、現代に至るまで事の真相がわからない、というミステリーな話でもあります。

宇佐美定満(宇佐美定行)・歌川国芳作/wikipediaより引用
まずはこの時点までの上杉家・長尾家について、内部事情を見ていきましょう。
越後長尾家は、謙信と政景に分かれる
他の大名家同様、上杉氏は多数の系統に枝分かれしています。
歴史の表舞台でよく出てくるのは、その中で越後守護を代々務めてきた家。
そのまんま「越後守護上杉家」と呼ばれています。
長尾氏は桓武平氏の末裔で、やはり多くの系統に枝分かれしている家であり、越後守護上杉家と絡んでくるのは、「越後長尾家」と呼ばれる系統です。こっちもまんまですね。
越後長尾家は、さらに府中上杉氏と上田長尾氏という系統に分かれます。
簡単にいうと、上杉謙信(長尾景虎)が府中上杉氏、長尾政景・景勝親子が上田長尾氏の出身です。
戦国時代の上杉家を扱った著作物では、上田長尾氏に属する武士を「上田衆」と呼んだりもしますね。
今回の話には関係ありませんが、桓武平氏の末裔には平将門などもいます。
つまり「謙信や景勝は将門とものすごく遠い親戚」ということになるわけです。
-

なぜ平将門の乱は起き誰が鎮圧したのか?今も皇居前に首塚が残されている理由は?
続きを見る
といっても時代も地域も違うので、もはや親戚とは言えないぐらい遠いですが。
まあ、意外な繋がりがあって面白いよねということで。
天文の乱まで遡る因縁があった!?
さて、話は溺死事件の20年ほど前にさかのぼります。
越後守護上杉家が断絶の危機に瀕したとき、奥州の伊達家から「じゃあうちの息子を一人あげるよん」という話が持ち上がりました。
天文の乱(伊達稙宗と晴宗の親子争いを機に東北中が大喧嘩)のキッカケとなった、伊達実元養子入り未遂事件です。
-

伊達稙宗の生涯|天文の乱を誘発して東北エリアを戦乱に巻き込んだ政宗の曾祖父
続きを見る
養子を迎える側の上杉家でも、当然これは問題になりました。
養子を迎えるにしても、身近な家から迎えるのが筋ですし、伊達家の中で揉めまくったために、養子が来るのか・来ないのか、よくわからん状態になったからです。
そして伊達家と奥州各地の大名が天文の乱をやっている間に、上杉家と長尾家も入り乱れて抗争を繰り広げていました。よそにまで迷惑かけた稙宗ェ……。
このとき、府中長尾氏の当主は長尾晴景という人物でした。謙信の実兄です。
彼はかなり温厚な人で、国人たちに対しても力で押さえつけるより宥和を試み、争いを収める主義でした。
武将というよりは政治家に近いというか、戦国時代では珍しいタイプですね。
しかし、天文の乱がらみのイザコザではその手がききませんでした。
謙信が還俗するとアッサリ鎮火
そんな中、お寺に入っていた謙信が還俗し、あっさり家中を鎮めてしまいます。
これによって府中長尾氏は晴景派と謙信派に分かれ、身内同士での争いが始まってしまいました。
当時の上田長尾氏の当主は政景で、このとき晴景側についています。
最終的に謙信が府中長尾氏の当主になり、政景もアレコレを経て軍門に降るのですが、これが後々尾を引きました。

長尾政景と仙洞院/wikipediaより引用
政景の父・房長が少々アレな人だったため、その頃のイメージが重なって、政景やその配下の上田衆の待遇も、良いとはいえないものになってしまったのです。
しかし、政景は「一度帰順したからには……」と気分を切り替え、謙信に忠実に仕えました。
家中の混乱に愛想を尽かし、再び出家しようとする謙信を説得して引き止めたり、春日山城の留守を預かったり、信頼も勝ち得ていったのです。
また、政景の正室は謙信の姉・仙桃院であり、夫婦仲が良かったことで、息子である景勝にはあまり悪影響が残らなかったようです。
義理の兄ということで、謙信も多少なりとも心強かったでしょう。
溺死の原因は諸説入り乱れ
溺死事件のもう一人の当事者・宇佐美定満(定行とも)は、藤原南家の末裔とされる家柄の人です。
こちらは先祖代々、越後守護上杉家に仕えてきた家でした。
定満は延徳元年(1489年)生まれとされ、大永六年(1526年)生まれの政景とは40歳近く離れていることになりますね。
溺死事件の1564年は御年75歳のご老体です。
定満については「天文の乱がらみのドタバタの際、誰の味方についていたのか」「いつ頃隠居したのか」について諸説入り乱れていて、どんな人だかはっきりしない面もあります。
最終的に晴景、次いで謙信に仕え、政景が降伏する際にも功績があったといわれていますので、重臣であることには変わりないのですが。
まとめると、政景と定満は「仲良しではないが、遺恨があってもおかしくはない」という感じの間柄だったことになります。
この日二人が溺死した件についても、諸説入り乱れています。
・二人が酒に酔った状態で舟遊びをしていたために、うっかり足を滑らせた
・定満が捨て身で政景を暗殺した
・他の上杉家臣による政景謀殺に、定満が巻き込まれた
このあたりが主な説ですね。
三つめだったら老人を粗末にしすぎやろ。
野尻湖説が有力 他にも数カ所候補あり
実は事件が起きた場所も確定していません。
定満の領していた琵琶島城の浮かぶ野尻湖という説が有力ですが、他にも数カ所の候補があります。
定満の墓が琵琶島城址、政景の墓が野尻湖近隣の真光寺にあるからでしょうか。
政景の墓については、
「最初は野尻湖の湖畔に墓が作られたが、その前を馬で通るとやたらと落馬する」
ことから移転した……という伝説があります。怖すぎ。
また、定満にはこの事件に先立つ永禄五年(1562年)に、北条氏との戦で戦死した説もあります。
-

北条氏康の生涯|信玄や謙信と渡りあい関東を制した相模の獅子 その事績
続きを見る
-

北条氏政の生涯|氏康の嫡男は信玄・謙信と互角に戦える名将だったのか
続きを見る
その場合、政景と一緒に溺死したのは別の人物ということになりますね。
何にせよ「主従や衆道関係でもない相手と(結果的に)心中」というのは実にイヤな話です。
時代的に、衆道絡みのいざこざが原因であってもおかしくはありませんが、その辺を深く勘ぐるとキリがなくなりますのでやめておきましょう。
「ワシの命に変えても邪魔者の政景を」
政景の息子・景勝は当時8歳。
戦国の世で父を亡くした武家の息子が安穏に暮らせるはずもなく、上杉謙信の養子となって生き延びることになります。
そして【御館の乱】に打ち勝ち、戦国をなんとか生き延びて現代に続くわけです。
-

上杉景勝の生涯|滅亡の危機をなんども乗り越えた謙信の甥にして後継者
続きを見る
-

謙信の死後に上杉家が真っ二つに割れた「御館の乱」なぜ景勝と景虎は激突した?
続きを見る
もしも定満のねらいが政景や上田長尾氏の勢力を削ぐことだったとしたら、むしろ逆効果になってしまっていますね。
定満が何を考えていたのかは本人のみぞ知るところですが、ひとつ仮説を立ててみましょう。
謙信はこの事件から11年前=天文二十二年(1553年)に、村上家という別の家から養子を迎えています。
山浦国清(後に景国と改名)という人で、謙信の養女と結婚していたため、実質的には婿養子=跡継ぎ第一候補です。
それを見て、定満が「これでお家は安泰! 後はワシの命に変えても、邪魔者の政景を取り除かねば!」と忠義を燃やしていた……なんてのはありそうです。
定満にとって計算外だったのは、謙信がその後も景勝ら養子を迎え続けたこと、最期まで跡継ぎをはっきり決めなかったことかもしれません。
ちなみに、国清はその後、別の家を継いだために山浦姓となりました。
謙信没後の御館の乱では景勝側につきましたが、【小田原征伐】に参加した後の行方はわかっていません。これまたモヤモヤしますね。
-

小田原征伐で秀吉相手に退かず!北条家の小田原城はどれだけ堅強だったのか?
続きを見る
野尻湖には、定満を供養した塚がある琵琶島へ渡れる定期船があるので、ここが事件現場だったとしたら、ごく近くまで行けることになります。
周辺に宿泊施設が数か所あるようですし、この辺に泊まって事件の真相を考察するのも一興になりそうです。
歴史作家さんが行ったら、何かしらインスピレーションがわいたりして。
あわせて読みたい関連記事
-

上杉謙信の生涯|軍神や越後の龍と称される49年の事績を史実で振り返る
続きを見る
-

直江兼続の生涯|真価は「義と愛」に非ず 史実も十分に魅力的な戦国武将
続きを見る
-

村上義清の生涯|信玄に2度も勝った男 その後は謙信と共に川中島の戦いへ
続きを見る
-

120万石から30万石へ地獄の大減封!収入75%減となった上杉家はどう対処した?
続きを見る
-

信玄と謙信“真の勝者”はどちらだと思います?日本無双之名大将という評価も
続きを見る
【参考】
国史大辞典
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
長尾政景/wikipedia
宇佐美定満/wikipedia












