アーサー・コナン・ドイル

アーサー・コナン・ドイルの肖像画(シドニー・パジェット作)/wikipediaより引用

イギリス

英国の小説家アーサー・コナン・ドイルはシャーロック・ホームズ産みの親

2024/07/06

芸術家や作家というと一つのことに邁進していたようなイメージが強いですが、中には多才な人もいます。

日本でいえば、作家も軍医もこなしていた森鴎外ですかね。

実は、同時代の違う国にも、鴎外と同じように文理両面で活躍した人がいました。

1930年7月7日に亡くなったアーサー・コナン・ドイル。

英国の作家でシャーロック・ホームズの生みの親ですね。

ホームズがあまりにも有名なため、その著者であるアーサーについては「凄い小説家」ということしか知られていませんが、実は結構いろいろやっていました。

彼の自伝をベースに、その生涯を振り返ってみましょう。

 


小説家なのに183cm108kgの巨漢

アーサーは、スコットランドの首都・エディンバラで生まれました。

祖父は風刺画や漫画を描いていたジョン・ドイルで、アイルランド人。

ジョンは妻に先立たれ、男子四人と女子一人がいました。その末っ子チャールズがアーサーの父親です。

アーサーにとって大伯父に当たる人々は、文筆家だったり美術館の職員になったとか。

父チャールズは19歳で家を離れてエディンバラの役所に勤めることに。

一方、アーサーにとって母方の祖父はトリニティ・カレッジの教師でした。

その妻(母方の祖母)カザリンが夫に死に別れ、エディンバラで下宿人を募集したときにやってきたのがチャールズであり、そこで出会ったのがアーサーの母メリーだったというわけです。

メリーはフランスで婦人としての教養を身に着け、帰国の後チャールズと恋に落ちて1855年に結婚したといいます。

両親ともに、大まかに見て文芸的な一族といえるでしょうか。

しかし、チャールズは真面目に働いていたがあまり昇進せず、副業として絵を描いて家計の足しにしていました。

描くのが不規則だったことと、大きな金額にはならなかったことから、一家はなかなか厳しい生活だったようです。

成長した後、アーサーの姉アネットや妹ロティとコニーは家庭教師として働き、実家へ仕送りをして家族を助けるようになっていきます。

少年時代のアーサーも、家計を一番に考えていたに違いありません。

アーサーは小さい頃学校でいじめに遭っていたらしいのですが、いじめられているばかりではなくやり返しもしていたとか。

 


夢中になって本を読み漁っていた

祖父の友人だった小説家のサッカレーが時折家を訪れて、アーサーを膝に乗せてくれたことをこの頃の思い出として書き残しています。

本への興味は早いうちに芽生えており、地元の小さな図書館から「借り換えは一日二回までにしてくれ」と言われたほど夢中になっていたとか。

借りていかずに図書館の中で読む、という選択肢はなかったんですかね……?

10歳からはカトリックの公立学校に入れられ、2年後には寄宿学校に入って勉学に励みました。

ここでラテン語やギリシャ語、数学なども学んだものの「生涯で役に立たなかった」と評しています。辛辣ゥ!

教師たちからは前途有望なタイプとは思われていなかったようだが、1874年に課題で詩を書いたところ、高く評価されたそうですので、文才はこのときから芽生えていたのでしょう。

その後ドイツの学校でドイツ語を学ばされましたが、これまたあまりやる気が出なかった様子。

アーサーは後年振り返って「イギリスやアイルランド出身者(英語話者)とばかりつるんでいたからだろう」としています。

現代でも留学生や駐在員などの間でままあるらしいですね、こういうの。

アーサーは一つのことに熱中するよりは器用に色々なことをこなすタイプで、このドイツ時代に

「学校の楽団でコントラバスを担当していた生徒が、故郷へ帰ったきり戻ってこない。君は体格がいいから代わりにやってくれないか」

と持ちかけられ、なんとかこなしています。

 

まずは医師の道へ

ドイツでの学びを終えて実家に帰ると、一家は相変わらず厳しい経済状態。

帰ってきてまもなくアーサーは医者になるよう言われ、エディンバラ大学に入りました。

奨学金をもらう試験を受けるも、事務手続きの不備があったため許可が降りず、7ポンドの慰謝料だけで終わってしまいます。

アーサーは「これから学ぶ大学で波風立てないほうがいいだろう」と判断し、大人しく引き下がるのです。

1876年に入学し、5年ほど学びましたが、アーサーによると「必修科目はたくさんあったが、治療とは関係ないもののほうが多かった」とか。

教師と学生の間に親密さがなく、「授業料を払えば受講できるだけ」といった事務的な雰囲気だったようなので、あまり意欲がわかなかったのかもしれません。

アーサーもアーサーで、各講師を皮肉った歌を作ったりしている一方で、良い出会いもありました。

後年、シャーロック・ホームズの話し方のモデルとなったジョゼフ・ベルという講師に巡り合ったのです。

彼は患者の仕草や病気からいくつかの質問をし、その人の身元を「除隊したばかりの兵士で、バルバドスに駐屯していたスコットランド人」と断定したことがありました。

その話し方がアーサーの印象に残り、大いに役立てられたのだそうで。

ベルとの親交は長く続き、1901年にアーサーが議員として立候補したときも支持者として演説してくれています。

その頃にはシャーロック・ホームズも世に出て人気を博していたので、ベルとしても一層誇らしい気分になっていたでしょう。

アーサーは家計を助けるため、在学中から「医師の助手になっていくらかの賃金を得よう」と考えました。

新聞に広告を出して雇ってくれる人を探し、個人診療所で診察や調剤などの手伝いをしていくらかのお金を得ています。

あるときたまたま医師の不在中に「爆発事故が起きてけが人がいる」という知らせがあり、アーサーが応急処置をしたこともありました。

その後、今度はバーミンガムの医師のもとで助手をしています。

この頃、友人に「お前の手紙は面白いから、きっと売れる文章が書けるだろう」と言われ、元々本が好きだったアーサーは副業として小説を書き始めました。

最初の短編『ササッサ峡谷の謎(なぞ)』が雑誌に採用され、わずかな原稿料を得たことで文才に自信を持ち始めます。

その後書いたものはお金にこそなりませんでしたが「一度成功したから、いつかまたお金になる」と思っていたようです。

 


あらゆるスポーツよりも楽しいクジラ漁

父が亡くなり、アーサーが一家の大黒柱にならざるを得なくなったのはこの頃。

悲観的にはならず、面白そうなものには何でも興味を持ち、触れていました。

あるときは劇場で女性を押しのけて通る兵士を見て「もう少し大人しくしていられないのか」と言い、ちょっとした喧嘩になったことがあります。

医師や小説家というとインテリの代表格ですけれども、アーサーの場合は体格も良かったし正義感もあったので、おとなしい方ではなかったようですね。

1880年には、同級生から捕鯨船のバイトを持ちかけられて参加しました。

友人の代わりに行ってくれと言われたのだそうで。

なにもないときは船長の話し相手をし、北極海の意外な近さに驚いたり、海に落ちたり、クジラ漁を「どんなスポーツの勝利にも代えがたい喜び」と表現しています。

白夜には辟易していたようですが。

捕鯨船のバイト代は月に2ポンド半+取れた油1トンに就き3シリングで、アーサーが実際に受け取った額は50ポンド。

なかなかのバイト代です。

また、この経験によって船医に興味を持ったようです。

「開業するとなったら場所やお金がいるが、船医ならばその心配はない」という経済的な理由もありました。

あまり悲観的な書き方はしていませんが、やはり家族のためにお金のことを常に考えていたのでしょう。

大学卒業は1881年8月で、その後アフリカ汽船会社の船・マユンバ号の船医に就職。

この船はヤシ油や南方の生産物がたくさん積まれており、アーサーは「私は脂っこいものに縁があるらしい」と回想しています。

このときは、アーサー自身が熱病で寝込んでしまい他に船医がいないので寝込むしかなかったとか、若気の至り(?)で船のまわりを泳いで一周し、船へ上がった直後にサメの背びれが見えたとか、船で火事が起きたとか、色々とスリリングな体験をしていました。

帰国後は、船医ではなく医者として陸で開業を考えます。

そこにプリマスの知人カリングワースから「ここで開業したので、君も来ないか」と誘いが来たので、これに乗りました。

彼は手術などをやりたがらなかったので、アーサーがそれを受け持って評判を高めたとか。

しかしアーサーの母はカリングワースと働くことをよく思っておらず、カリングワースのほうでも「そろそろ別れてやっていくほうがいいと思う」と言われて、アーサーも自分の診療所を持つことにしました。

 

診察をこなしながら短編を書く

開業の支度をしながらも、いくつかの短編を『ロンドン・ソサイエティ』という雑誌に寄稿するなど、公私共に精力的に活動していたアーサー。

一人暮らしでの食事は「パンとベーコンにお茶」ばかりで栄養バランスが悪く、自伝の中で「あのころ壊血病にならなかったのが不思議である」と書いています。

しかし、体力には余裕があり、患者が来ない日は何マイルも散歩してストレスを発散していたそうです。

そのうちホームシックになったのか、弟のイネスを呼び寄せようと考えました。

自伝では「部屋にも余裕があるし、母の荷も軽くなるし、うちの近くにいい学校もあるし」と書いていますが……「同年輩の友人を作ろう」とか「結婚しよう」と考えずに、当時10歳のイネスをわざわざ選ぶあたり、やはりホームシックの面が強そうに思えます。

兄弟仲は良く、二人で家事をしたり一緒に散歩したりしていたそうです。

プライベートが充実してしばらくすると、診療所のほうも順調になり、生活も安定。

時が流れ、1885年にイネスはヨークシャー州のパブリック・スクールに入るため、アーサーの家を出ました。

その後アーサーは、最初の妻ルイーズ・ホーキンズと結婚します。

患者だった人の姉妹だったそうで、ままある話ですかね。

彼女は夫の創作意欲にも良い影響を与えたようで、アーサーは1885年~1890年に多くの短編を書いて、好評を得ました。

この頃はまだ無名で発表していたが、「サッカレーが墓の中でひっくり返るような短編」とまで絶賛され、どんどん評判が高まっていきます。

しかし結婚から一年ほど経った頃「もっと長いものを書いて、本の背表紙に自分の名前を出したい」と考えるようになりました。

そして数年かけて書き、発表されたのがシャーロック・ホームズシリーズの長編『緋色の研究』でした。

ただし、肝心の発行元を探すも、当初は「帯に短したすきに長し」といった評価を受けることが多く、芳しくありません。

その中でワード・ロック社というところがこんな提案をしてきました。

「年が明けてからでも良ければ25ポンドで買い取ります」

少し迷いながらもアーサーは受け入れます。

 

人気小説家として

結果、同作品は爆発的ヒット!

その後、重版や映画化もされますが、ワード・ロック社が権利を持っていたので作者は儲かっていません。

現代でも似たような感じのことをたまに聞きますね。

その後は『マイカ・クラーク」という17世紀の反乱事件を題材とした歴史小説が、一年の間に三回重版されるほどの人気を博し、小説家として大きな一歩を踏み出します。

ホームズシリーズの第二段『四つの署名』も出版。

これはそれまでよりもかなり高い原稿料をもらうことができました。

歴史小説の執筆も続けており、少しずつ作家としての人気も上がっていきます。

どちらかといえばホームズのほうが注目されていたので、アーサー本人としては不本意だったとか。

彼は「推理小説より歴史小説のほうが格上だ」と考えていたこと、そしてホームズの熱狂的なファンの中に非常識な人がいたことが主な原因のようです。

いつの時代も、創作と現実の境界線を混ぜたがる人がいるものですね。

同時期に心霊的な体験の話も聞くようになり、こちらにはこの後興味を増していくようになります。

また、この後眼科を専門に学んでいったん眼科医院を開きましたが、すぐに辞めてしまいました。

インフルエンザで寝込んだある日、突然

「せっかく小説で稼げるようになったのに、眼科医院でその金を浪費するのは愚かではないか」

と思い立ち、新しい家を見つけて医院を閉めたのだそうで。

切り替えと行動が早すぎる。

 

「ホームズ1000ポンドな!」「ハイッ!」「えっ(´・ω・`)」

この頃にはホームズやワトスン宛の手紙が山程来るようになり、中には事件の相談をしてくる人や、ホームズの住所を教えろというものまであったそうですから、それほど人気作家になっていたということですよね。

また、「二年前から寝たきりで、あなたの小説が唯一の楽しみなのです」という女性からの手紙も来たことがありました。

アーサーは差出人に同情し、サイン付きの自著を何冊か送ったそうです。

ここで終わっていれば「イイハナシダナー」ということになるのですが、オチがあります。

後日、アーサーが作家仲間にこの話をすると、「私のところにも同じ手紙が来たよ」と見せられたのだそうです。

その女性が詐欺師だったのか、ただ大げさな人だったのかはわかりませんが、アーサーは「彼女の手元には面白い図書室ができただろう」と、笑い話にしています。

1891年からはホームズの短編連載を開始。ここから本格的な人気作家になっていきます。

一方、ホームズの人気があまりにも高くなりすぎて、困ったことも起きるようになりました。

ファンレターの宛先がアーサーではなくホームズになっていたり、サインを求められても「ホームズの名前でお願いします!」と言われたりと、生みの親よりも架空の人物の人気が上回り、存在感が大きくなるという現象が起きてしまったのです。

当然アーサーとしては全く面白くなく、わが子に等しいホームズのことを毛嫌いするようになってしまいました。

「最後の事件」はそういった経緯があったのでああいう話になったわけですね。

また、アーサーはどちらかというと推理小説より歴史小説を書くほうが好きだったので、どうにかして歴史作家として名を残したいと考えていました。

が、ホームズの人気が確立してしまった後ではそれも難しく、ホームズシリーズを連載していた雑誌からも「歴史よりホームズを書いてくださいよ」と言われていたようです。

これまた当たり前ながら、やはりアーサーにとっては気分の良いものではありません。

そこで「1,000ポンドくれればホームズを書いてもいい」とふっかけたところ、出版社があっさり「おk」と言ってきたため、アーサーはまたホームズを書かざるを得ませんでした。

ハッタリって使いどころが難しいですよね(´・ω・`)

アーサーは自伝の中で、家族に対してあまり書いていないのですが、いわゆる世間一般的な家庭を築いていたものと思われます。

1893年に妻が肺病を患っていることが判明し、医者は「数ヶ月しか持たないだろう」と診断したのですが、アーサーは諦めませんでした。

家を処分して一家でスイス・ダヴォスで療養することにしたのです。するとかなり病状が改善し、満足そうにしています。

妻の看病にかかりきりでもなく、アーサーはウインタースポーツを楽しみながらジェラード准将ものをいくつか書いていました。

この頃になると、かつて同居していた弟のイネスは士官学校を出て軍に入っていました。

妻の病状が落ち着いていたタイミングで、イネスとともにアメリカへ旅行に出かけたこともあります。朗読や講演のための旅行だったらしいので、半分は仕事でしたが。

反英感情が強い時期だったため、歓迎されないこともあったようですけれども、旅費を差し引いても1000ポンド残ったらしいので、成功と言えるでしょう。

1894年のクリスマスにはダヴォスに戻り、家族と過ごしました。

 

ボーア戦争で現地へ

1895年の秋には妻と妹のロティを連れてイタリア経由でエジプトに行き、一冬を過ごしました。

ここでもジェラード准将シリーズを書いています。

この間は妻の健康状態が良かったので、ロティとともに社交界を楽しんだようです。

アーサーは砂漠にも出かけ、危うく遭難しかけたりもしていました。

このエジプト滞在中の1896年春にイギリスが戦争に突入し、アーサーは「前線を観察するまたとない機会」と考えて、ロンドンの夕刊紙ウェストミンスター・ガゼットの従軍記者に応募し、採用されました。

支度は全て自前で、妻も待たせなければならなかったが、好奇心が勝ったようです。

現地では大新聞の記者も多かったものの、アーサーは彼らと親しくなって取材のチャンスを掴んだそうです。

その辺の詳細は自伝では書かれていないのが残念なところ。

戦争のこともさながら、ラクダやイモリなど現地の印象深い動物についても触れています。

また、食料の調達に困ってしばらくアンズの缶詰しか食べられず、「もう一生見たくない」とまで言っています。

この記者生活は2ヶ月程度で終わり、暑くなってきたので1週間後には妻を連れてロンドンへ帰りました。

戦場に触れたからか、心霊現象への興味も少しずつ増しました。

彼は「私は何か使命を持って生まれたのではないか」と考えており、それが心霊的な何かだと思っていたようです。

どうだったんですかね。

そんな折、イギリスは大きな戦争に入ろうとしていました。

ボーア戦争という、南アフリカを巡って起きたイギリスvs現地のオランダ系住民の戦争です。

愛国心が強かったアーサーは兵士に志願しましたが、年齢ではねられてしまい、その後ツテで補助医員の一人となって現地へ向かいました。

傷病者を救うべく献身的に働き、イギリス軍の司令官と直接会見して報告を行うなど、責任ある立場になっていたようです。

現地では敵に水道を絶たれて一時古い井戸を使わざるを得ず、腸の病気で大きな被害が出てしまいました。

野戦病院ではよくあることですが、定員以上の患者が押し込まれたために衛生環境が悪化し、職員も過労状態で厳しい状態だったといいます。残念ながら力尽きてしまう人も……。

アーサーも特に野戦病院特有の消毒剤と病気の臭いにはかなり辟易したそうで、自伝にもトラウマになっていたらしき記述があります。

しかし、半世紀前のクリミア戦争でナイチンゲールが野戦病院の環境を改善させていたというのに、現場にそのノウハウは残っていなかったんですかね……?

気候や戦線の違いはあるとはいえ、なんだかモヤッとします。

患者に名前を名乗った際、「あなたの本を読みましたよ」と言われたこともあったようなので、そういった経験が慰めになっていたらいいのですが。

このあたりの章には凄惨な描写もありますので、コナン・ドイル自伝をこれから読む人は気をつけたほうがいいかもしれません。

1900年の夏にアーサーはイギリスへ帰国し、ボーア戦争に関する戦記を執筆。これはヨーロッパ各国の言語に翻訳され、広く読まれました。

発行には多くの寄付金が寄せられ、発行のあと余った分はエディンバラ大学に運用してもらい、南アフリカから来た学生のうち最も優秀な者に授与することになっています。

他にもいろいろな軍事や福祉関係の団体に寄付しており、アーサーの名は名士としても知られるようになりました。

 

英軍の行った非人道行為を擁護

1900年には議員に立候補しました。

理由は本人も即答できなかったようです。

彼の自伝では「なぜそうしたのかわからない」という出来事がたびたび登場しますが、そういった経験が多いからこそ心霊現象に興味を抱いたのでしょうか。

結果として数百票差で落選しているため、政治家にはなっていません。

他の政治家からはどう見られていたかというと、意外と好意的でした。

ただし「人気作家を自分の党から出馬させれば、全体的な得票数も上がるだろう」というゲスい理由です。

どこの国の政治家も、考えることは同じようですね。

その後、彼はボーア戦争におけるイギリス軍の非人道的行為について擁護を続けた、戦争賛成派と政府・国王からは熱狂的な支持を取り付けました。

あまりにも悲惨なのでここでは詳細を割愛しますが、イギリス軍はボーア戦争で「ゲリラに対抗するため」として焦土作戦を決行しており、その地域に住んでいた人々を劣悪な環境の収容所に押し込めていたのです。

名目としては「婦女子の保護」ということになっていました。

が、食料が満足に与えられず、病気が蔓延し、2万人以上の死者が出たといわれています。

これに対し彼は「イギリス軍でも病死者はいるんだから、収容所の環境がおかしいわけではない」(意訳)と言い、また、現地で起きた性犯罪事件についても「そんなのどこの戦争でもある話じゃん」(超訳)とまるで取り合わなかったとか。

それもそうですが、だからといってやっていいことにはなりませんよね……。

これだけではアーサーの人格が疑われてしまいますので、この頃にあった人情的な話も付け加えておきましょう。

1901年、知人がアルバート・ホールで筋肉コンテストを行うことになり、アーサーはジャッジを依頼されました。現代でいう所のボディビル大会みたいな感じですかね。

最優秀賞に金の像、次に銀の像、三位に銅像が与えられることになったのですが、最終候補の6人が甲乙つけがたく、急遽増やして6人を表彰することにしました。

アーサーを含めた判定人三名は悩みに悩んだ末、身長などのバランスを加味して、ランカシャーの若者マーリに一位を与えることに。

その後アーサーは主催者から夕食会に招かれ、それは深夜まで続きました。

会場を出ると、なんとマーリがうろちょろしていました。

マーリはロンドンに不慣れで、駅まで歩いて帰りの列車に乗ろうとしていたそうなのですが、賞品の像を抱えていたため、「強盗さんいらっしゃい」状態。

見かねたアーサーはマーリを自分のホテルに連れていき、部屋を取ってやったそうです。

マーリはあまり裕福ではなかったので、像を売って生活の足しにしようと思っていたらしいのです。

しかしアーサーにこんな提案されます。

「君の生まれた町に体育館を作り、そこにその像を飾る方がいいだろう」

その通りにしたとのこと。

 

冤罪事件に燃える エダルジイ事件とスレータ事件

1906年に妻と死に別れて間もなく、アーサーは新聞でとんでもない事件のことを知ります。

今日「エダルジイ事件」と呼ばれているものです。

エダルジイ家という中東系の夫とイギリス人の妻、その間に生まれた法学生の息子ジョージという一家がいました。

彼らがどのようにしてその職と住まいを得たのかわかりませんが、20世紀初頭は有色人種への偏見がキツかった時代。

エダルジイ一家もそのうち隣近所から嫌がらせを受けるようになり、暴行事件まで起きるようになりました。

そしてジョージが嫌がらせ行為の犯人だという疑いがかかり、裁判で懲役7年が決まってしまったというのです。

これに対し、知識人や雑誌社がジョージの味方になってやろうとしていたが、効果がなく、アーサーがこの件を知った時点で刑期を3年過ごしていました。

アーサーは時折「◯◯しなければならない」という典型めいた使命感を抱くことがあり、このときもそうでした。

ジョージの手記に真実味を感じた彼は、今までの新聞記事や裁判記録などを集め、1907年1月に「デイリー・テレグラフ」紙に事件について書き、ジョージを弁護する記事を連載し始めたのです。

この記事は著作権なしでという契約になっていたため、他の新聞にも転載されて安く売られ、今までこの件を知らなかった人にも多く知らされました。

調べを進めてみると、父による証言やアリバイがあったにもかかわらず、ジョージが有罪にされていたことがわかり、再調査のための委員会が設置されます。

その結果、ジョージの有罪は否認されたのですが、

「誤審を招いたのはジョージなので、賠償金を支払う必要はない」

という無茶苦茶な結論が出されました。ひでえ。

弁護士会などはこれに反論したが覆らず、アーサーは「イギリス法廷史の汚点」「内務省の連中は気◯い」と酷評しています。

その後、デイリー・テレグラフがジョージのための救援募金を始め、300ポンドほど集まりました。

ジョージはこのお金から、弁護費用を取り計らってくれたおばに返済したとか。まともな人ですね。

ちなみにこの後、アーサーによって

「ジョージが刑務所に入ってからも、馬への暴行などの事件が続いていた」

という事が発覚するも、警察や内務省は動かなかったようです。

アーサーはとある人物(以下”X”)が真犯人であるという確信を抱いていたようで、諸々の証拠を集めた後、

「Xが地元を数年間離れていた間は、嫌がらせや馬への暴行は起きていなかった」

とし、真犯人が別にいることを強調しています。

その後Xには懲役6ヶ月の判決が出たらしいが、あまりにも軽すぎますよね。

警察からXをかばっているらしき手紙も来たそうなので、地元のジェントリか貴族あたりとよほど繋がりのある人物だったのでしょうか……。

1907年中にアーサーが二人めの妻ジーンと結婚した際、式にジョージ・エダルジイも参列してくれたそうなので、義理堅い人だったようです。

もうひとつが1910年の「スレータ事件」というもの。

エダルジイ事件の事を知った人々が、

「オスカー・スレータという人にも誤審の疑いがあるので究明してほしい」

「あなたに頼めばきっと解決してくれるに違いない」

という手紙を送ってきたのです。

オスカーは殺人の疑いをかけられており、彼がドイツ出身のユダヤ人であることから、ここでも人種差別による不当な判決の疑いがありました。

彼は1908年12月に起きたミス・ギルクリストという初老の女性が殺された事件の犯人とされていました。

ギルクリストはメイドのヘレンが10分ほど出かけた隙に殴打されて殺されており、近所の人とヘレンの目撃証言もあったのですが、その証言ではオスカーと全く似ていませんでした。

警察はギルクリストの持っていたダイヤのブローチが盗まれていたことから、

「犯人は物取り目的で忍び込み、ギルクリストに見つかったので殺した」

と考えていました。

そしてそれらしきブローチが質屋に入れられていたことから、アメリカに渡っていたオスカーが

「盗品を処分して海の向こうに逃げた」

とみなされ、逮捕されたのです。

しかし、後になってこのブローチはギルクリストのものではなく、オスカーがずっと持っていたものだったことがわかりました。

にもかかわらず、いろいろとメチャクチャな理由をこじつけられて有罪にされてしまったのです。ほんとひでえ。

いったん絞首刑の判決が出るまでになったが、執行二日前に中止され、収監されていました。

経緯を知ったアーサーは、エダルジイ事件と同様に「なんとかしてやりたい」という義侠心にかられ、新聞や小冊子で再調査がされるようにはたらきかけました。

しかしオスカーが女性問題を多く抱えており、逃れるために頻繁に変名を用いていたことから怪しまれ続けることに……。

その結果、オスカーの疑いは晴れず、アーサーが自伝を書いている1924年時点でも収監されたままでした。

その後紆余曲折あってなんとか無罪を勝ち取るのですが、オスカーが後援者たちへの返済をしなかったことから、アーサーは激怒しています。

エダルジイ事件とスレータ事件は、当事者の人柄や、アーサーが関わることになった経緯が自発・外発のどちらかであるかなどがくっきり分かれていて、なかなか興味深い差があります。

 

第一次世界大戦時に光る先見の明

第一次大戦前の国際緊張が高まっていた時期、アーサーはこんな危機感を抱いていました。

「ドーバー海峡やアイルランド周辺の海を敵潜水艦に封鎖されれば、食糧問題や国際問題の元になるだろう」

アメリカが参戦するきっかけになった1915年のルシタニア号事件はイギリス船籍だったので、予想が的中したといえなくもありません。

イギリスは当時食料の5/6を輸入に頼っていたため、アーサーも食料問題についての関心はかなり高かったようで、解決策をいろいろ提示しています。

その中にドーバー海峡横断トンネルの開設があります。実は1868年から計画されていたのですが、第一次大戦当時は建設が中断されていました。

この件は新聞上でもよく取り沙汰されたようです。

開戦が確実になると、アーサーは民兵に近い組織を作ろうと考え、自ら一人目に登録しました。

下士官に相当する役職を作ったり訓練したり、陸軍に許可を求めたりと本格的にやっていたようです。

しかし軍から「直ちに解散せよ」と命令が出たので、即座に解散となりました。

まあ、ただでさえ混乱しやすく物資も不足しやすい戦時下で、民間組織にそれらが流れてしまったり、指揮系統が混乱したら元も子もないですものね……。

自分たちの地域を見回る自警団くらいなら許されたかもしれませんが。

やる気が評価されたものか、その後アーサーは政府が運営していた志願兵組織の委員に選ばれます。

ここでは隊員と積極的にコミュニケーションを取り、「もしも実践の機会に恵まれれば見事にやってみせただろう」と誇りを持っていました。

ドイツ軍の捕虜を警備する仕事や、個人的にこっそり本を使った暗号でイギリス軍の捕虜に情報を伝えたりしています。

また、戦時中の問題として食料問題や配給制に触れ、「もう一度ああした戦争が起きない限り、適切な説明はできないだろう」としています。

彼の死後にその機会が来たとは信じがたいでしょうね。

1916年には、イタリアやフランス戦線の報道員として現地へ赴きました。

この取材の中で無差別爆撃について

「国際法でこれを禁止しない限り、次の戦争では市民は穴を掘って逃げ込まなければならないだろう」

と記しています。

これもまさにその通りになっていますね。

いったん帰国した後、1918年9月にはオーストラリア政府の招待で同国軍の前線を見学。

オーストラリア軍にはユダヤ系軍人が多かったそうで、「優秀なら人種は問わないのだろう」としています。

また、オーストラリア軍にはイギリス軍の第三軍団が配置されており、その中にアーサーの弟イネスがいたため、周囲が計らって兄弟で食事をする時間を取ってくれています。

この戦争中にイネスは亡くなってしまうので、これが兄弟でとった最後の食事だったかもしれませんね……。

他にも妻の弟や友人の弟、アーサーの最初の妻との息子キングズリーも第一次大戦中に戦死や戦病死で世を去りました。

 

戦争による身内の死を契機に、心霊主義へ傾いていく

前々から心霊現象に興味を持っていたアーサー。

近しい人々が立て続けに亡くなったためか、戦後一層傾倒していきます。

「戦争で肉親や多くの人の死に直面し、死後も彼らが存在しているはずだと確信した」

アーサーは亡くなった母や甥、そして弟や自分の息子などの声を聞いたと信じており、だからこそ心霊現象は事実であると確信したのだといいます。

自伝の最後で「私が生涯の残りを捧げうる仕事」とまで言っているので、本当に信じていたのでしょう。

彼は「この考えを広めることが自身に課せられた使命だ」と感じ、イギリスだけでなくヨーロッパ全土、そしてオーストラリア・アメリカ・アフリカなどさまざまな国で心霊主義の講演会を行っています。

どちらかというとイギリスがケンカを売って悲劇が生まれた場所の方が多いような……ゲフンゲフン。

「これから私は最も偉大な冒険に出るのだ」

そんな感じであらゆる面で現役だったアーサー。

60代に入るとさすがに体調不良を訴えることが多くなりました。

度々心臓発作を起こしていたそうで、医師が療養するように言っても聞き入れようとしなかったとか。

自分にも医学の心得があったため、「まだ大丈夫」と思い込んでいたのかもしれません。

亡くなったのは1930年7月7日の朝。

自宅の窓際で風景を眺めながら、静かに息を引き取ったそうです。

しかし、心霊主義のせいか、自らの死に前向きでして。

「これから私は最も偉大な冒険に出るのだ!」(意訳)

なんてことを語っていたとか。

そう思えて心地よく往生できるなら、死や幽霊の存在もあながち悪いものではないかもしれませんね。

ホームズ作品に心霊主義や幽霊を反映させたとしたらスゴイことになりそうですが。

被害者が「犯人はアイツなんです!」って言っておしまいですから、そもそも推理小説として成り立たなくなっちゃいますかね。

アーサーの幽霊がいるとしたら、彼の名から取られた某有名マンガにものすごい勢いでツッコミまくったりしているのかもしれません。

アーサーは心霊現象の他にも、石炭鉱山や工場への投資、スポーツなど、興味があったことはなんでもやってみるタイプの人でした。

とりあえずやってみたことが、創作の参考になったことも多かったようです。

最近「歳を重ねると何にもハマれなくなってつらい」なんて話がSNSで話題になっていましたが、「とりあえずやってみる」とまた何か違う道が見えてくるかもしれませんね。


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【参考】
アーサー・コナン・ドイル/延原謙『わが思い出と冒険―コナン・ドイル自伝』(→amazon
『デジタル版 集英社世界文学大事典』
ほか

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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