芸術家や作家というと一つのことに邁進していたようなイメージが強いですが、中には多才な人もいます。
日本でいえば、作家も軍医もこなしていた森鴎外ですかね。
実は、同時代の違う国にも、鴎外と同じように文理両面で活躍した人がいました。
1930年7月7日に亡くなったアーサー・コナン・ドイル。
英国の作家でシャーロック・ホームズの生みの親ですね。
ホームズがあまりにも有名なため、その著者であるアーサーについては「凄い小説家」ということしか知られていませんが、実は結構いろいろやっていました。
彼の自伝をベースに、その生涯を振り返ってみましょう。
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小説家なのに183cm108kgの巨漢
アーサーは、スコットランドの首都・エディンバラで生まれました。
祖父は風刺画や漫画を描いていたジョン・ドイルで、アイルランド人。
ジョンは妻に先立たれ、男子四人と女子一人がいました。その末っ子チャールズがアーサーの父親です。
アーサーにとって大伯父に当たる人々は、文筆家だったり美術館の職員になったとか。
父チャールズは19歳で家を離れてエディンバラの役所に勤めることに。
一方、アーサーにとって母方の祖父はトリニティ・カレッジの教師でした。
その妻(母方の祖母)カザリンが夫に死に別れ、エディンバラで下宿人を募集したときにやってきたのがチャールズであり、そこで出会ったのがアーサーの母メリーだったというわけです。
メリーはフランスで婦人としての教養を身に着け、帰国の後チャールズと恋に落ちて1855年に結婚したといいます。
両親ともに、大まかに見て文芸的な一族といえるでしょうか。
しかし、チャールズは真面目に働いていたがあまり昇進せず、副業として絵を描いて家計の足しにしていました。
描くのが不規則だったことと、大きな金額にはならなかったことから、一家はなかなか厳しい生活だったようです。
成長した後、アーサーの姉アネットや妹ロティとコニーは家庭教師として働き、実家へ仕送りをして家族を助けるようになっていきます。
少年時代のアーサーも、家計を一番に考えていたに違いありません。
アーサーは小さい頃学校でいじめに遭っていたらしいのですが、いじめられているばかりではなくやり返しもしていたとか。
夢中になって本を読み漁っていた
祖父の友人だった小説家のサッカレーが時折家を訪れて、アーサーを膝に乗せてくれたことをこの頃の思い出として書き残しています。
本への興味は早いうちに芽生えており、地元の小さな図書館から「借り換えは一日二回までにしてくれ」と言われたほど夢中になっていたとか。
借りていかずに図書館の中で読む、という選択肢はなかったんですかね……?
10歳からはカトリックの公立学校に入れられ、2年後には寄宿学校に入って勉学に励みました。
ここでラテン語やギリシャ語、数学なども学んだものの「生涯で役に立たなかった」と評しています。辛辣ゥ!
教師たちからは前途有望なタイプとは思われていなかったようだが、1874年に課題で詩を書いたところ、高く評価されたそうですので、文才はこのときから芽生えていたのでしょう。
その後ドイツの学校でドイツ語を学ばされましたが、これまたあまりやる気が出なかった様子。
アーサーは後年振り返って「イギリスやアイルランド出身者(英語話者)とばかりつるんでいたからだろう」としています。
現代でも留学生や駐在員などの間でままあるらしいですね、こういうの。
アーサーは一つのことに熱中するよりは器用に色々なことをこなすタイプで、このドイツ時代に
「学校の楽団でコントラバスを担当していた生徒が、故郷へ帰ったきり戻ってこない。君は体格がいいから代わりにやってくれないか」
と持ちかけられ、なんとかこなしています。
まずは医師の道へ
ドイツでの学びを終えて実家に帰ると、一家は相変わらず厳しい経済状態。
帰ってきてまもなくアーサーは医者になるよう言われ、エディンバラ大学に入りました。
奨学金をもらう試験を受けるも、事務手続きの不備があったため許可が降りず、7ポンドの慰謝料だけで終わってしまいます。
アーサーは「これから学ぶ大学で波風立てないほうがいいだろう」と判断し、大人しく引き下がるのです。
1876年に入学し、5年ほど学びましたが、アーサーによると「必修科目はたくさんあったが、治療とは関係ないもののほうが多かった」とか。
教師と学生の間に親密さがなく、「授業料を払えば受講できるだけ」といった事務的な雰囲気だったようなので、あまり意欲がわかなかったのかもしれません。
アーサーもアーサーで、各講師を皮肉った歌を作ったりしている一方で、良い出会いもありました。
後年、シャーロック・ホームズの話し方のモデルとなったジョゼフ・ベルという講師に巡り合ったのです。
彼は患者の仕草や病気からいくつかの質問をし、その人の身元を「除隊したばかりの兵士で、バルバドスに駐屯していたスコットランド人」と断定したことがありました。
その話し方がアーサーの印象に残り、大いに役立てられたのだそうで。
ベルとの親交は長く続き、1901年にアーサーが議員として立候補したときも支持者として演説してくれています。
その頃にはシャーロック・ホームズも世に出て人気を博していたので、ベルとしても一層誇らしい気分になっていたでしょう。
アーサーは家計を助けるため、在学中から「医師の助手になっていくらかの賃金を得よう」と考えました。
新聞に広告を出して雇ってくれる人を探し、個人診療所で診察や調剤などの手伝いをしていくらかのお金を得ています。
あるときたまたま医師の不在中に「爆発事故が起きてけが人がいる」という知らせがあり、アーサーが応急処置をしたこともありました。
その後、今度はバーミンガムの医師のもとで助手をしています。
この頃、友人に「お前の手紙は面白いから、きっと売れる文章が書けるだろう」と言われ、元々本が好きだったアーサーは副業として小説を書き始めました。
最初の短編『ササッサ峡谷の謎(なぞ)』が雑誌に採用され、わずかな原稿料を得たことで文才に自信を持ち始めます。
その後書いたものはお金にこそなりませんでしたが「一度成功したから、いつかまたお金になる」と思っていたようです。
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