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【アーサー・コナン・ドイル】
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冤罪事件に燃える エダルジイ事件とスレータ事件
1906年に妻と死に別れて間もなく、アーサーは新聞でとんでもない事件のことを知ります。
今日「エダルジイ事件」と呼ばれているものです。
エダルジイ家という中東系の夫とイギリス人の妻、その間に生まれた法学生の息子ジョージという一家がいました。
彼らがどのようにしてその職と住まいを得たのかわかりませんが、20世紀初頭は有色人種への偏見がキツかった時代。
エダルジイ一家もそのうち隣近所から嫌がらせを受けるようになり、暴行事件まで起きるようになりました。
そしてジョージが嫌がらせ行為の犯人だという疑いがかかり、裁判で懲役7年が決まってしまったというのです。
これに対し、知識人や雑誌社がジョージの味方になってやろうとしていたが、効果がなく、アーサーがこの件を知った時点で刑期を3年過ごしていました。
アーサーは時折「◯◯しなければならない」という典型めいた使命感を抱くことがあり、このときもそうでした。
ジョージの手記に真実味を感じた彼は、今までの新聞記事や裁判記録などを集め、1907年1月に「デイリー・テレグラフ」紙に事件について書き、ジョージを弁護する記事を連載し始めたのです。
この記事は著作権なしでという契約になっていたため、他の新聞にも転載されて安く売られ、今までこの件を知らなかった人にも多く知らされました。
調べを進めてみると、父による証言やアリバイがあったにもかかわらず、ジョージが有罪にされていたことがわかり、再調査のための委員会が設置されます。
その結果、ジョージの有罪は否認されたのですが、
「誤審を招いたのはジョージなので、賠償金を支払う必要はない」
という無茶苦茶な結論が出されました。ひでえ。
弁護士会などはこれに反論したが覆らず、アーサーは「イギリス法廷史の汚点」「内務省の連中は気◯い」と酷評しています。
その後、デイリー・テレグラフがジョージのための救援募金を始め、300ポンドほど集まりました。
ジョージはこのお金から、弁護費用を取り計らってくれたおばに返済したとか。まともな人ですね。
ちなみにこの後、アーサーによって
「ジョージが刑務所に入ってからも、馬への暴行などの事件が続いていた」
という事が発覚するも、警察や内務省は動かなかったようです。
アーサーはとある人物(以下”X”)が真犯人であるという確信を抱いていたようで、諸々の証拠を集めた後、
「Xが地元を数年間離れていた間は、嫌がらせや馬への暴行は起きていなかった」
とし、真犯人が別にいることを強調しています。
その後Xには懲役6ヶ月の判決が出たらしいが、あまりにも軽すぎますよね。
警察からXをかばっているらしき手紙も来たそうなので、地元のジェントリか貴族あたりとよほど繋がりのある人物だったのでしょうか……。
1907年中にアーサーが二人めの妻ジーンと結婚した際、式にジョージ・エダルジイも参列してくれたそうなので、義理堅い人だったようです。
もうひとつが1910年の「スレータ事件」というもの。
エダルジイ事件の事を知った人々が、
「オスカー・スレータという人にも誤審の疑いがあるので究明してほしい」
「あなたに頼めばきっと解決してくれるに違いない」
という手紙を送ってきたのです。
オスカーは殺人の疑いをかけられており、彼がドイツ出身のユダヤ人であることから、ここでも人種差別による不当な判決の疑いがありました。
彼は1908年12月に起きたミス・ギルクリストという初老の女性が殺された事件の犯人とされていました。
ギルクリストはメイドのヘレンが10分ほど出かけた隙に殴打されて殺されており、近所の人とヘレンの目撃証言もあったのですが、その証言ではオスカーと全く似ていませんでした。
警察はギルクリストの持っていたダイヤのブローチが盗まれていたことから、
「犯人は物取り目的で忍び込み、ギルクリストに見つかったので殺した」
と考えていました。
そしてそれらしきブローチが質屋に入れられていたことから、アメリカに渡っていたオスカーが
「盗品を処分して海の向こうに逃げた」
とみなされ、逮捕されたのです。
しかし、後になってこのブローチはギルクリストのものではなく、オスカーがずっと持っていたものだったことがわかりました。
にもかかわらず、いろいろとメチャクチャな理由をこじつけられて有罪にされてしまったのです。ほんとひでえ。
いったん絞首刑の判決が出るまでになったが、執行二日前に中止され、収監されていました。
経緯を知ったアーサーは、エダルジイ事件と同様に「なんとかしてやりたい」という義侠心にかられ、新聞や小冊子で再調査がされるようにはたらきかけました。
しかしオスカーが女性問題を多く抱えており、逃れるために頻繁に変名を用いていたことから怪しまれ続けることに……。
その結果、オスカーの疑いは晴れず、アーサーが自伝を書いている1924年時点でも収監されたままでした。
その後紆余曲折あってなんとか無罪を勝ち取るのですが、オスカーが後援者たちへの返済をしなかったことから、アーサーは激怒しています。
エダルジイ事件とスレータ事件は、当事者の人柄や、アーサーが関わることになった経緯が自発・外発のどちらかであるかなどがくっきり分かれていて、なかなか興味深い差があります。
第一次世界大戦時に光る先見の明
第一次大戦前の国際緊張が高まっていた時期、アーサーはこんな危機感を抱いていました。
「ドーバー海峡やアイルランド周辺の海を敵潜水艦に封鎖されれば、食糧問題や国際問題の元になるだろう」
アメリカが参戦するきっかけになった1915年のルシタニア号事件はイギリス船籍だったので、予想が的中したといえなくもありません。
イギリスは当時食料の5/6を輸入に頼っていたため、アーサーも食料問題についての関心はかなり高かったようで、解決策をいろいろ提示しています。
その中にドーバー海峡横断トンネルの開設があります。実は1868年から計画されていたのですが、第一次大戦当時は建設が中断されていました。
この件は新聞上でもよく取り沙汰されたようです。
開戦が確実になると、アーサーは民兵に近い組織を作ろうと考え、自ら一人目に登録しました。
下士官に相当する役職を作ったり訓練したり、陸軍に許可を求めたりと本格的にやっていたようです。
しかし軍から「直ちに解散せよ」と命令が出たので、即座に解散となりました。
まあ、ただでさえ混乱しやすく物資も不足しやすい戦時下で、民間組織にそれらが流れてしまったり、指揮系統が混乱したら元も子もないですものね……。
自分たちの地域を見回る自警団くらいなら許されたかもしれませんが。
やる気が評価されたものか、その後アーサーは政府が運営していた志願兵組織の委員に選ばれます。
ここでは隊員と積極的にコミュニケーションを取り、「もしも実践の機会に恵まれれば見事にやってみせただろう」と誇りを持っていました。
ドイツ軍の捕虜を警備する仕事や、個人的にこっそり本を使った暗号でイギリス軍の捕虜に情報を伝えたりしています。
また、戦時中の問題として食料問題や配給制に触れ、「もう一度ああした戦争が起きない限り、適切な説明はできないだろう」としています。
彼の死後にその機会が来たとは信じがたいでしょうね。
1916年には、イタリアやフランス戦線の報道員として現地へ赴きました。
この取材の中で無差別爆撃について
「国際法でこれを禁止しない限り、次の戦争では市民は穴を掘って逃げ込まなければならないだろう」
と記しています。
これもまさにその通りになっていますね。
いったん帰国した後、1918年9月にはオーストラリア政府の招待で同国軍の前線を見学。
オーストラリア軍にはユダヤ系軍人が多かったそうで、「優秀なら人種は問わないのだろう」としています。
また、オーストラリア軍にはイギリス軍の第三軍団が配置されており、その中にアーサーの弟イネスがいたため、周囲が計らって兄弟で食事をする時間を取ってくれています。
この戦争中にイネスは亡くなってしまうので、これが兄弟でとった最後の食事だったかもしれませんね……。
他にも妻の弟や友人の弟、アーサーの最初の妻との息子キングズリーも第一次大戦中に戦死や戦病死で世を去りました。
戦争による身内の死を契機に、心霊主義へ傾いていく
前々から心霊現象に興味を持っていたアーサー。
近しい人々が立て続けに亡くなったためか、戦後一層傾倒していきます。
「戦争で肉親や多くの人の死に直面し、死後も彼らが存在しているはずだと確信した」
アーサーは亡くなった母や甥、そして弟や自分の息子などの声を聞いたと信じており、だからこそ心霊現象は事実であると確信したのだといいます。
自伝の最後で「私が生涯の残りを捧げうる仕事」とまで言っているので、本当に信じていたのでしょう。
彼は「この考えを広めることが自身に課せられた使命だ」と感じ、イギリスだけでなくヨーロッパ全土、そしてオーストラリア・アメリカ・アフリカなどさまざまな国で心霊主義の講演会を行っています。
どちらかというとイギリスがケンカを売って悲劇が生まれた場所の方が多いような……ゲフンゲフン。
「これから私は最も偉大な冒険に出るのだ」
そんな感じであらゆる面で現役だったアーサー。
60代に入るとさすがに体調不良を訴えることが多くなりました。
度々心臓発作を起こしていたそうで、医師が療養するように言っても聞き入れようとしなかったとか。
自分にも医学の心得があったため、「まだ大丈夫」と思い込んでいたのかもしれません。
亡くなったのは1930年7月7日の朝。
自宅の窓際で風景を眺めながら、静かに息を引き取ったそうです。
しかし、心霊主義のせいか、自らの死に前向きでして。
「これから私は最も偉大な冒険に出るのだ!」(意訳)
なんてことを語っていたとか。
そう思えて心地よく往生できるなら、死や幽霊の存在もあながち悪いものではないかもしれませんね。
ホームズ作品に心霊主義や幽霊を反映させたとしたらスゴイことになりそうですが。
被害者が「犯人はアイツなんです!」って言っておしまいですから、そもそも推理小説として成り立たなくなっちゃいますかね。
アーサーの幽霊がいるとしたら、彼の名から取られた某有名マンガにものすごい勢いでツッコミまくったりしているのかもしれません。
アーサーは心霊現象の他にも、石炭鉱山や工場への投資、スポーツなど、興味があったことはなんでもやってみるタイプの人でした。
とりあえずやってみたことが、創作の参考になったことも多かったようです。
最近「歳を重ねると何にもハマれなくなってつらい」なんて話がSNSで話題になっていましたが、「とりあえずやってみる」とまた何か違う道が見えてくるかもしれませんね。
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長月 七紀・記
【参考】
アーサー・コナン・ドイル/延原謙『わが思い出と冒険―コナン・ドイル自伝』(→amazon)
『デジタル版 集英社世界文学大事典』
ほか