アーサー・コナン・ドイル

アーサー・コナン・ドイルの肖像画(シドニー・パジェット作)/wikipediaより引用

イギリス 作家

英国の小説家アーサー・コナン・ドイルをご存知?シャーロック・ホームズ産みの親

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あらゆるスポーツよりも楽しいクジラ漁

父が亡くなり、アーサーが一家の大黒柱にならざるを得なくなったのはこの頃。

悲観的にはならず、面白そうなものには何でも興味を持ち、触れていました。

あるときは劇場で女性を押しのけて通る兵士を見て「もう少し大人しくしていられないのか」と言い、ちょっとした喧嘩になったことがあります。

医師や小説家というとインテリの代表格ですけれども、アーサーの場合は体格も良かったし正義感もあったので、おとなしい方ではなかったようですね。

1880年には、同級生から捕鯨船のバイトを持ちかけられて参加しました。

友人の代わりに行ってくれと言われたのだそうで。

なにもないときは船長の話し相手をし、北極海の意外な近さに驚いたり、海に落ちたり、クジラ漁を「どんなスポーツの勝利にも代えがたい喜び」と表現しています。

白夜には辟易していたようですが。

捕鯨船のバイト代は月に2ポンド半+取れた油1トンに就き3シリングで、アーサーが実際に受け取った額は50ポンド。

なかなかのバイト代です。

また、この経験によって船医に興味を持ったようです。

「開業するとなったら場所やお金がいるが、船医ならばその心配はない」という経済的な理由もありました。

あまり悲観的な書き方はしていませんが、やはり家族のためにお金のことを常に考えていたのでしょう。

大学卒業は1881年8月で、その後アフリカ汽船会社の船・マユンバ号の船医に就職。

この船はヤシ油や南方の生産物がたくさん積まれており、アーサーは「私は脂っこいものに縁があるらしい」と回想しています。

このときは、アーサー自身が熱病で寝込んでしまい他に船医がいないので寝込むしかなかったとか、若気の至り(?)で船のまわりを泳いで一周し、船へ上がった直後にサメの背びれが見えたとか、船で火事が起きたとか、色々とスリリングな体験をしていました。

帰国後は、船医ではなく医者として陸で開業を考えます。

そこにプリマスの知人カリングワースから「ここで開業したので、君も来ないか」と誘いが来たので、これに乗りました。

彼は手術などをやりたがらなかったので、アーサーがそれを受け持って評判を高めたとか。

しかしアーサーの母はカリングワースと働くことをよく思っておらず、カリングワースのほうでも「そろそろ別れてやっていくほうがいいと思う」と言われて、アーサーも自分の診療所を持つことにしました。

 

診察をこなしながら短編を書く

開業の支度をしながらも、いくつかの短編を『ロンドン・ソサイエティ』という雑誌に寄稿するなど、公私共に精力的に活動していたアーサー。

一人暮らしでの食事は「パンとベーコンにお茶」ばかりで栄養バランスが悪く、自伝の中で「あのころ壊血病にならなかったのが不思議である」と書いています。

しかし、体力には余裕があり、患者が来ない日は何マイルも散歩してストレスを発散していたそうです。

そのうちホームシックになったのか、弟のイネスを呼び寄せようと考えました。

自伝では「部屋にも余裕があるし、母の荷も軽くなるし、うちの近くにいい学校もあるし」と書いていますが……「同年輩の友人を作ろう」とか「結婚しよう」と考えずに、当時10歳のイネスをわざわざ選ぶあたり、やはりホームシックの面が強そうに思えます。

兄弟仲は良く、二人で家事をしたり一緒に散歩したりしていたそうです。

プライベートが充実してしばらくすると、診療所のほうも順調になり、生活も安定。

時が流れ、1885年にイネスはヨークシャー州のパブリック・スクールに入るため、アーサーの家を出ました。

その後アーサーは、最初の妻ルイーズ・ホーキンズと結婚します。

患者だった人の姉妹だったそうで、ままある話ですかね。

彼女は夫の創作意欲にも良い影響を与えたようで、アーサーは1885年~1890年に多くの短編を書いて、好評を得ました。

この頃はまだ無名で発表していたが、「サッカレーが墓の中でひっくり返るような短編」とまで絶賛され、どんどん評判が高まっていきます。

しかし結婚から一年ほど経った頃「もっと長いものを書いて、本の背表紙に自分の名前を出したい」と考えるようになりました。

そして数年かけて書き、発表されたのがシャーロック・ホームズシリーズの長編『緋色の研究』でした。

ただし、肝心の発行元を探すも、当初は「帯に短したすきに長し」といった評価を受けることが多く、芳しくありません。

その中でワード・ロック社というところがこんな提案をしてきました。

「年が明けてからでも良ければ25ポンドで買い取ります」

少し迷いながらもアーサーは受け入れます。

 

人気小説家として

結果、同作品は爆発的ヒット!

その後、重版や映画化もされますが、ワード・ロック社が権利を持っていたので作者は儲かっていません。

現代でも似たような感じのことをたまに聞きますね。

その後は『マイカ・クラーク」という17世紀の反乱事件を題材とした歴史小説が、一年の間に三回重版されるほどの人気を博し、小説家として大きな一歩を踏み出します。

ホームズシリーズの第二段『四つの署名』も出版。

これはそれまでよりもかなり高い原稿料をもらうことができました。

歴史小説の執筆も続けており、少しずつ作家としての人気も上がっていきます。

どちらかといえばホームズのほうが注目されていたので、アーサー本人としては不本意だったとか。

彼は「推理小説より歴史小説のほうが格上だ」と考えていたこと、そしてホームズの熱狂的なファンの中に非常識な人がいたことが主な原因のようです。

いつの時代も、創作と現実の境界線を混ぜたがる人がいるものですね。

同時期に心霊的な体験の話も聞くようになり、こちらにはこの後興味を増していくようになります。

また、この後眼科を専門に学んでいったん眼科医院を開きましたが、すぐに辞めてしまいました。

インフルエンザで寝込んだある日、突然

「せっかく小説で稼げるようになったのに、眼科医院でその金を浪費するのは愚かではないか」

と思い立ち、新しい家を見つけて医院を閉めたのだそうで。

切り替えと行動が早すぎる。

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