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【アーサー・コナン・ドイル】
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「ホームズ1000ポンドな!」「ハイッ!」「えっ(´・ω・`)」
この頃にはホームズやワトスン宛の手紙が山程来るようになり、中には事件の相談をしてくる人や、ホームズの住所を教えろというものまであったそうですから、それほど人気作家になっていたということですよね。
また、「二年前から寝たきりで、あなたの小説が唯一の楽しみなのです」という女性からの手紙も来たことがありました。
アーサーは差出人に同情し、サイン付きの自著を何冊か送ったそうです。
ここで終わっていれば「イイハナシダナー」ということになるのですが、オチがあります。
後日、アーサーが作家仲間にこの話をすると、「私のところにも同じ手紙が来たよ」と見せられたのだそうです。
その女性が詐欺師だったのか、ただ大げさな人だったのかはわかりませんが、アーサーは「彼女の手元には面白い図書室ができただろう」と、笑い話にしています。
1891年からはホームズの短編連載を開始。ここから本格的な人気作家になっていきます。
一方、ホームズの人気があまりにも高くなりすぎて、困ったことも起きるようになりました。
ファンレターの宛先がアーサーではなくホームズになっていたり、サインを求められても「ホームズの名前でお願いします!」と言われたりと、生みの親よりも架空の人物の人気が上回り、存在感が大きくなるという現象が起きてしまったのです。
当然アーサーとしては全く面白くなく、わが子に等しいホームズのことを毛嫌いするようになってしまいました。
「最後の事件」はそういった経緯があったのでああいう話になったわけですね。
また、アーサーはどちらかというと推理小説より歴史小説を書くほうが好きだったので、どうにかして歴史作家として名を残したいと考えていました。
が、ホームズの人気が確立してしまった後ではそれも難しく、ホームズシリーズを連載していた雑誌からも「歴史よりホームズを書いてくださいよ」と言われていたようです。
これまた当たり前ながら、やはりアーサーにとっては気分の良いものではありません。
そこで「1,000ポンドくれればホームズを書いてもいい」とふっかけたところ、出版社があっさり「おk」と言ってきたため、アーサーはまたホームズを書かざるを得ませんでした。
ハッタリって使いどころが難しいですよね(´・ω・`)
アーサーは自伝の中で、家族に対してあまり書いていないのですが、いわゆる世間一般的な家庭を築いていたものと思われます。
1893年に妻が肺病を患っていることが判明し、医者は「数ヶ月しか持たないだろう」と診断したのですが、アーサーは諦めませんでした。
家を処分して一家でスイス・ダヴォスで療養することにしたのです。するとかなり病状が改善し、満足そうにしています。
妻の看病にかかりきりでもなく、アーサーはウインタースポーツを楽しみながらジェラード准将ものをいくつか書いていました。
この頃になると、かつて同居していた弟のイネスは士官学校を出て軍に入っていました。
妻の病状が落ち着いていたタイミングで、イネスとともにアメリカへ旅行に出かけたこともあります。朗読や講演のための旅行だったらしいので、半分は仕事でしたが。
反英感情が強い時期だったため、歓迎されないこともあったようですけれども、旅費を差し引いても1000ポンド残ったらしいので、成功と言えるでしょう。
1894年のクリスマスにはダヴォスに戻り、家族と過ごしました。
ボーア戦争で現地へ
1895年の秋には妻と妹のロティを連れてイタリア経由でエジプトに行き、一冬を過ごしました。
ここでもジェラード准将シリーズを書いています。
この間は妻の健康状態が良かったので、ロティとともに社交界を楽しんだようです。
アーサーは砂漠にも出かけ、危うく遭難しかけたりもしていました。
このエジプト滞在中の1896年春にイギリスが戦争に突入し、アーサーは「前線を観察するまたとない機会」と考えて、ロンドンの夕刊紙ウェストミンスター・ガゼットの従軍記者に応募し、採用されました。
支度は全て自前で、妻も待たせなければならなかったが、好奇心が勝ったようです。
現地では大新聞の記者も多かったものの、アーサーは彼らと親しくなって取材のチャンスを掴んだそうです。
その辺の詳細は自伝では書かれていないのが残念なところ。
戦争のこともさながら、ラクダやイモリなど現地の印象深い動物についても触れています。
また、食料の調達に困ってしばらくアンズの缶詰しか食べられず、「もう一生見たくない」とまで言っています。
この記者生活は2ヶ月程度で終わり、暑くなってきたので1週間後には妻を連れてロンドンへ帰りました。
戦場に触れたからか、心霊現象への興味も少しずつ増しました。
彼は「私は何か使命を持って生まれたのではないか」と考えており、それが心霊的な何かだと思っていたようです。
どうだったんですかね。
そんな折、イギリスは大きな戦争に入ろうとしていました。
ボーア戦争という、南アフリカを巡って起きたイギリスvs現地のオランダ系住民の戦争です。
愛国心が強かったアーサーは兵士に志願しましたが、年齢ではねられてしまい、その後ツテで補助医員の一人となって現地へ向かいました。
傷病者を救うべく献身的に働き、イギリス軍の司令官と直接会見して報告を行うなど、責任ある立場になっていたようです。
現地では敵に水道を絶たれて一時古い井戸を使わざるを得ず、腸の病気で大きな被害が出てしまいました。
野戦病院ではよくあることですが、定員以上の患者が押し込まれたために衛生環境が悪化し、職員も過労状態で厳しい状態だったといいます。残念ながら力尽きてしまう人も……。
アーサーも特に野戦病院特有の消毒剤と病気の臭いにはかなり辟易したそうで、自伝にもトラウマになっていたらしき記述があります。
しかし、半世紀前のクリミア戦争でナイチンゲールが野戦病院の環境を改善させていたというのに、現場にそのノウハウは残っていなかったんですかね……?
気候や戦線の違いはあるとはいえ、なんだかモヤッとします。
患者に名前を名乗った際、「あなたの本を読みましたよ」と言われたこともあったようなので、そういった経験が慰めになっていたらいいのですが。
このあたりの章には凄惨な描写もありますので、コナン・ドイル自伝をこれから読む人は気をつけたほうがいいかもしれません。
1900年の夏にアーサーはイギリスへ帰国し、ボーア戦争に関する戦記を執筆。これはヨーロッパ各国の言語に翻訳され、広く読まれました。
発行には多くの寄付金が寄せられ、発行のあと余った分はエディンバラ大学に運用してもらい、南アフリカから来た学生のうち最も優秀な者に授与することになっています。
他にもいろいろな軍事や福祉関係の団体に寄付しており、アーサーの名は名士としても知られるようになりました。
英軍の行った非人道行為を擁護
1900年には議員に立候補しました。
理由は本人も即答できなかったようです。
彼の自伝では「なぜそうしたのかわからない」という出来事がたびたび登場しますが、そういった経験が多いからこそ心霊現象に興味を抱いたのでしょうか。
結果として数百票差で落選しているため、政治家にはなっていません。
他の政治家からはどう見られていたかというと、意外と好意的でした。
ただし「人気作家を自分の党から出馬させれば、全体的な得票数も上がるだろう」というゲスい理由です。
どこの国の政治家も、考えることは同じようですね。
その後、彼はボーア戦争におけるイギリス軍の非人道的行為について擁護を続けた、戦争賛成派と政府・国王からは熱狂的な支持を取り付けました。
あまりにも悲惨なのでここでは詳細を割愛しますが、イギリス軍はボーア戦争で「ゲリラに対抗するため」として焦土作戦を決行しており、その地域に住んでいた人々を劣悪な環境の収容所に押し込めていたのです。
名目としては「婦女子の保護」ということになっていました。
が、食料が満足に与えられず、病気が蔓延し、2万人以上の死者が出たといわれています。
これに対し彼は「イギリス軍でも病死者はいるんだから、収容所の環境がおかしいわけではない」(意訳)と言い、また、現地で起きた性犯罪事件についても「そんなのどこの戦争でもある話じゃん」(超訳)とまるで取り合わなかったとか。
それもそうですが、だからといってやっていいことにはなりませんよね……。
これだけではアーサーの人格が疑われてしまいますので、この頃にあった人情的な話も付け加えておきましょう。
1901年、知人がアルバート・ホールで筋肉コンテストを行うことになり、アーサーはジャッジを依頼されました。現代でいう所のボディビル大会みたいな感じですかね。
最優秀賞に金の像、次に銀の像、三位に銅像が与えられることになったのですが、最終候補の6人が甲乙つけがたく、急遽増やして6人を表彰することにしました。
アーサーを含めた判定人三名は悩みに悩んだ末、身長などのバランスを加味して、ランカシャーの若者マーリに一位を与えることに。
その後アーサーは主催者から夕食会に招かれ、それは深夜まで続きました。
会場を出ると、なんとマーリがうろちょろしていました。
マーリはロンドンに不慣れで、駅まで歩いて帰りの列車に乗ろうとしていたそうなのですが、賞品の像を抱えていたため、「強盗さんいらっしゃい」状態。
見かねたアーサーはマーリを自分のホテルに連れていき、部屋を取ってやったそうです。
マーリはあまり裕福ではなかったので、像を売って生活の足しにしようと思っていたらしいのです。
しかしアーサーにこんな提案されます。
「君の生まれた町に体育館を作り、そこにその像を飾る方がいいだろう」
その通りにしたとのこと。
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