1819年(日本では江戸時代・文政二年)8月26日は、ザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルバートが誕生した日です。
後にヴィクトリア女王の夫となる人ですね。
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「ザクセン=コーブルク=ゴータ公国」はドイツ中部にあった国。
ですので出生時の名前はドイツ語の「アルブレヒト」になりますが、英語読みで統一させていただきます。
今回は、仲睦まじき二人に注目してみましょう。
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17歳のヴィクトリアが一目惚れしただと!?
ヴィクトリア女王の母とアルバートの父は兄妹でした。
つまり二人は、いとこ同士の結婚となります。
アルバートの結婚前のことについては、ほとんど具体的な逸話が伝わっていません。
若くして亡くなったせいで、現代のイギリス人もあまり知らないそうですから、研究も進んでいないのかもしれません。
その代わり(?)結婚するまでの経緯については割とハッキリしております。
この結婚を推奨したのは、ヴィクトリアとアルバート双方にとって叔父である、ベルギー国王レオポルド1世です。
17歳で王女時代のヴィクトリアに初めて対面し、彼女がアルバートに一目惚れ。
レオポルド1世の狙いを知った上で、周りの反対を押し切り、出会いから四年後に結婚しました。
二人とも21歳のときです。
このときにはヴィクトリアも即位していましたので、若くて綺麗な国王夫婦で、さぞかし絵になったことでしょう。
アルバートの両親であるエルンスト1世とルイーゼは仲が悪く、両方とも浮気をしていたというすさまじい家庭環境でした。
そのため、彼は自分では温かい家庭を作るべく努力しを重ねます。
夫婦仲はとても良いというか良すぎるほどで、四男五女という大家族になりました。
結婚から17年後に議会も二人を認める
二人の子供は、感染症のため35歳で亡くなったアリスと、血友病のため30歳で亡くなったレオポルドを除いて、7人が長生きします。
この時代に幼くして亡くなった子供がいないというのは興味深いですね。
王族で一般人よりも恵まれた環境にあるとはいえ、親の愛情や家庭環境が体の頑健さにも影響するのでしょうか。
ヴィクトリア女王がしょっちゅう妊娠・出産していたため、アルバートが公的な場に姿を見せることも多かったといいます。
実質的には共同統治に近かったかもしれませんね。
議会は当初、イギリス人の王配を望んでいたこともあってか、正式に認められたのは結婚から17年後のことです。
ヴィクトリア女王が政務に取り組んでいる時も秘書のような役割を果たし、彼女の治世で首相を務めた人からも頼りにされていました。
彼女が短気だったため、まずアルバートに相談してから女王へ進言するほうが好ましい場合もあったとか。
ものの言い方一つで、印象が全く変わることもありますしね。
しつけを厳しくしすぎて長男エドワードは反発
アルバートは家庭内でも基本的には良い父親でした。
が、しつけを厳しくしすぎて長男アルバート・エドワード(後のエドワード7世)には反発されてしまいます。
その反動でしょうか。
エドワード7世は、父のしつけが相当嫌だったようで、自分の子供にはあまり厳しくしなかったといわれています。
フランスを訪れたときには、自分をかわいがってくれるナポレオン3世に対し
「あなたの息子に生まれたかった」
と言うほどだったとか……。
後述の逸話からすると、決して父のことが嫌いなわけではなかったようなのですが。
また、アルバートは女王への取次役だけでなく、政務へも積極的に取り組みました。
王室内の形骸化した悪習による浪費を削減で、2万5000ポンドを節約できたといいます。
大体いくらぐらいの価値なのか?
物価の換算は難しいところですが、年俸100ポンドで家令(貴族の家で一番エライ使用人・使用人頭で執事より上)一人が雇えるくらいの時代です。
単純に考えて、アルバート1人で250人分の人件費を浮かせたのと同じくらいの節約ということになりますかね。
つか、それまでどんだけ浪費してたんだ。
使用人たちには「ケチくさい」と言われてしまったそうですが、ちりも積もれば何とやらの見本みたいな話です。
節約できたお金を、アルバートは貯め込むことはしませんでした。
ヴィクトリア女王のお気に入りだったワイト島に「オズボーン・ハウス」という離宮を建て、毎年女王一家はそこへ避暑に行くようにしたのです。
「人に節約させたお金を自分たちのために使うなんてサイテー」
という見方もできますが、この時代、高貴な人のお屋敷は、その地元の働き先や花嫁修業先という面もあったので、あながち悪いことでもありません。
王族のお出かけとなれば使用人もついていきますし、入用なものを地元から買って経済が潤うことにもなったでしょうしね。
懐中時計用の鎖が「アルバート」と呼ばれるように
そんな感じで女王の有能な伴侶だったアルバートは「ケチくさい」という評判が広まってしまったせいなのか、庶民からの人気はあまり高くなかったようです。
しかし、1851年にロンドン万博を提案、これを成功させたことで多少株が上がります。
他にクリスマスツリーをドイツから伝えたり、愛煙家だったことでイギリスにおけるタバコのイメージが向上したり。
細かな影響はたくさん与えています。
ヴィクトリア女王はタバコが大嫌いだったらしいので、ちょっとしたケンカになったこともあったかもしれませんね。
また、アルバートは懐中時計を愛用しており、彼の死後、懐中時計用の鎖が「アルバート」と呼ばれるようになったほどでした。
他にもアルバートと称される被服類がたくさんあります。
文化が上から広まる典型例かもしれません。
ヴィクトリア女王は長命で有名ですが、アルバートは40代に入ったあたりから体調を崩しがちになってしまいました。
母親が30歳の若さで胃がんにかかっているので、元から胃腸の弱い体質だったと思われ……そしてそれに輪をかけたのが、息子であるエドワード7世の素行でした。
この頃、エドワード7世はケンブリッジ大学の学生ながら、愛人との交際が新聞に書き立てられたのです。
上記の通り、アルバートの両親はともに愛人を作っており、悲惨な家庭で育っています。
「愛人」という単語自体がトラウマになっていてもおかしくありません。それでなくても、王族の醜聞は好ましくないですよね。
アルバートは息子をたしなめるべく、体調不良をおしてケンブリッジを訪れました。
エドワードは一応父の言うことを聞きました。
が、ロンドンに帰った後、アルバートが腸チフスを悪化させてしまい、1ヶ月ほど後に亡くなってしまっています。まだ42歳。
さすがにエドワード7世も慌てて父の枕辺を訪れ、亡くなる直前の真夜中に対面が叶いました。
アルバートは苦しみながらも、息子の顔を見て安心した様子だったそうです。
ヴィクトリア女王は「不肖の息子のせいで夫が早死した」と受け取り、エドワード7世を公務から遠ざけ、彼はその後も一生、母に怯え続けたそうです。
これは「鶏と卵どっちが先か」みたいなところがあるので、よろしければ以下のエドワード記事を併せてご覧ください。
英国王エドワード7世~偉大すぎる母ヴィクトリアに振り回された生涯とは
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エドワードの死後、ヴィクトリアは喪服で過ごす
ヴィクトリア女王は、夫が亡くなった後、華美な服装をせず喪服で過ごすようになりました。
また、冬にオズボーン・ハウスへ行くようになっています。
夫や、小さいころの子供たちと過ごした日々を偲んでいたのでしょうか。
寒いとなんとなく物悲しい気分になりやすいですしね。
ヴィクトリア女王が最期を迎えたのもオズボーン・ハウスです。
ヴィクトリア女王の次は当然エドワード7世の番ですが、彼は即位するときに「イギリス王室のアルバートといったら、父が連想されるようにしたい」として、王名にファーストネームを使いませんでした。
普段はそんな素振りを見せなくても、父を敬愛していたのでしょうね。
男同士らしいというか不器用というか。
ところで、彼の晩年の写真を見ると、頭頂部にかなりの特徴があることがわかります(婉曲表現)。
アルバートのじーちゃんあたりからこの傾向があったようです。
それ以前の時代はカツラ着用が当たり前だったので、実際にはどのくらい前からなのかわかりません。
ウィリアム王子やヘンリー王子にも遺伝してるんですかね。
ダイアナ妃の弟で、両王子の叔父である現スペンサー伯爵はそれほどでもありませんし。
まぁ、ウィリアム王子は息子のジョージ王子の頭を見て「神に感謝しなくては」とネタにしているくらいですから、あまり気にしてないかもしれません。
むしろ昔ネタにしてたヘンリー王子が最近……ですし。
「頭頂部の特徴は男性ホルモンが多い証拠」という俗説もあり、アルバートとヴィクトリア女王の子供が多いことを考えると、本当にそうなのかもしれませんね。
そのうち子孫繁栄の象徴として受け止められるようになる……かも?
子・孫・ひ孫がパリピで英国王室が大混乱!ヴィクトリア女王の子孫がヤバい
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長月 七紀・記
【参考】
『図説 ヴィクトリア朝百貨事典 (ふくろうの本)』(→amazon link)
アルバート_(ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)/wikipedia
エルンスト1世_(ザクセン=コーブルク=ゴータ公)/wikipedia
フランツ_(ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公)/wikipedia
エルンスト・フリードリヒ_(ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公)/wikipedia