1910年(明治四十三年)8月26日、マザー・テレサが誕生しました。
1997年(平成九年)までご存命でしたし、この方の献身的な功績についてはご記憶の方も多いでしょう。
主にインドで活動していたことが有名ですが、そこに行き着くまでにはどのような経緯があったのか。
振り返ってみましょう。
【TOP画像】マザー・テレサ/photo by
wikipediaより引用
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マゲドニア出身で本名はアグネス
マザー・テレサというのは本名ではありません。
「マザー」は修道女(シスター)の中でも修道院長などで指導をする立場の敬称で、テレサというのは洗礼名。
元のお名前はアグネス・ゴンジャ・ボヤジュですが、いつも通りよく知られている”マザー・テレサ”で統一させていただきます。
生まれた場所は現在のマケドニアの首都・スコピエでした。
当時ここはオスマン帝国の領地であり、彼女は、アレクサンドロス大王と並ぶマケドニアの有名人と見ることもできます。
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血筋的にはマケドニア人ではなく、アルバニア人のお母さんと少数民族・アルーマニア人のお父さんがいますので、日本的な言い方にするとこの二つの民族のハーフということになりますかね。
母方の民族ではイスラム教。
地元マケドニアでは正教徒が主流。
マザー・テレサの家はそのいずれでもなくカトリック教徒だったそうです。
小さい頃の詳しい記録や口述はほとんどないようですが、聡明で献身的な姿勢は幼少期から身についていたようで、12歳の時には
「インドで人々のために働きたい」
と決意を固めていたとか。
そして数年後――その望みを叶えるため故郷を離れてアイルランドへ渡りました。
ロレト修道女会という組織に所属し、諸々を学んだ後、実際にインドへ旅立つのです。
「テレサ」という名前を使い始めたのはこの頃からでした。
アイルランドで修道女になりインドへ
まずはコルカタという町の学校で地理の授業を担当しました。
当時のインドはイギリスの植民地で、コルカタはその中心地。
経済的にも栄えたのは、ある程度、西洋人が活動しやすいところだったからだと思われます。
マザー・テレサは、昔から地理という科目が好きで、ユニークな表現を使ったため学生達にも人気だったそうです。
異国の地で学生に人気があったという点では、小泉八雲あたりと似ていますね。
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マザー・テレサの赴任先は俗に言うお嬢様学校だったのでした。
その町にも貧しい人々はいたので、常に「彼らのために何かしたい」という気持ちはあったようです。
第二次大戦の翌年、神の啓示を受け 俗世へ
そして第二次世界大戦が終わった翌年(1946年)のこと。
汽車に乗っていた彼女に、神様がささやきます。
「お前の望む通り、身一つで最も貧しい人のために働きなさい」
いわゆる”天の啓示”ですね。
どうせなら神様もこういう平和なことだけ言ってくれればいいのに――と思うのはワタクシだけではないでしょう。
マザー・テレサは早速教会にその旨を申し出ますが、バチカンのお偉いさんはなかなか許可を出してくれませんでした。
カトリックは教皇をトップとしたヒエラルキーのある組織です。
いくら神様のお告げがあったとしてもそうカンタンに「おk」と言うわけにもいかない。
お願いの中に「教会の外で暮らすことをお許しください」という点も含まれていたのが最大のネックだったと思われます。
修道女は清貧な生活のため一つところ(=修道院)で暮らすのが原則ですから、例外を認めてしまうと他への影響が大きすぎると考えたのでしょう。
しかし、ときの教皇ピウス12世は比較的マザー・テレサと似た考えを持っておりました。
彼女の願いを聞き届けてくれたのです。
ここで頑として跳ね付けられていなかったら、マザー・テレサの偉業は成されなかったのかもしれません。
教皇GJ!
インドの民族服を着てスラム街で授業
許可が下りるとマザー・テレサは、インドの民族衣装・サリーを身につけ、コルカタのスラム街へ入っていきました。
まずは諸般の事情で学校に行けない子供たちへ無料で授業を行います。
そしてかつての教え子だったお嬢さんたちがこれを聞きつけ協力し始めると、彼女達を伝ってなのか、地元の名士や教会から寄付が集まってきました。
これは良いコネですね。
瞬く間に、マザー・テレサの評判は広まり、1950年には”神の愛の宣教者会”という修道女会を設立しました
「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」
ことを使命として掲げた”神の愛の宣教者会”という修道女会を設立しました。
現在も存続しており、133の国及び地域で4500人の修道女が献身的に働いています。
後には男性(修道士)の協力者も集まり、別の組織としてやはり人々のために尽くしています。
同会が行っているのは使命に掲げている通り、不運にも恵まれない境遇にある人々への福祉事業です。
貧しい家の子供たちのための学校と施設、及び貧困や病気によって死にゆく人々が穏やかに最後を迎えるためのホスピスを作り、そうした人々のためにお世話をしています。
後者は「死を待つ人々の家」として有名ですね。
カトリックへの改宗を求めず
カトリック系の施設ということで、当初は「カトリックに無理やり改宗させられるんじゃないか」と疑われたこともあったようです。
しかしマザー・テレサはもちろん、その下で働く修道女たちも個々人の信じる宗教を尊重。
疑いは徐々に晴れていきます。
もし亡くなる人がいれば、その信仰にしたがって葬式その他も行っており、「論より証拠」で人々の信頼を集めました。
彼女たちの努力は早くも10年程度で実を結び、神の愛の宣教者会はインド全域で活動するようになります。
また、インド国外での活動も許可が下り、同じく不遇な人々のために各国へ活動拠点を作って徐々に協力者も増えていきました。
1970年代からはこうした活動を称え、マザー・テレサに各国の名誉賞や勲章、大学の名誉学位等が与えられています。
その中にはもちろんノーベル平和賞も含まれていました。
献身的活動でノーベル平和賞を受賞した人には、他に”赤十字の父”アンリ・デュナンやオルガニスト兼学者だったアルベルト・シュバイツァーなどがいますが、やはりマザー・テレサのイメージが強いという人が多そうですね。
世界のためにできること「家に帰って家族を愛してください」
ノーベル平和賞受賞の際も
「晩餐会のための費用で、貧しい人々の救済をお願いします」
「この賞金はいくつパンが買える金額なのでしょう」
など、あくまで自分ではなく他者のためにお金を使うべきと考えていた発言をしたと記録されています。
また、受賞時のインタビューで「世界平和のために、まず何をしたらいいのでしょうか」と聞かれたときには「家に帰って家族を愛してあげてください」と答えたとか。
物理的に離れていても思いやることはできますが、やはり一緒にいてこそ伝わるものがあると考えていたのでしょうね。
常に恵まれない人々に寄り添って活動していた彼女が言うことですから、実に説得力があります。
それに、兄弟あるいは夫婦や親戚の間といった小さな範囲で争いが起きると、より大きな地域や国での争いに発展しかねません。
特に富裕層や政治家周辺が絡んだ場合どうなるか、といった例は枚挙に暇がないですよね。
これは私見ですが、そういうことを言いたかったのではないでしょうか。
現在でも”神の愛の宣教者会”では「マザーと呼ぶにふさわしい人はテレサだけ」という姿勢を貫いており、現在の代表者はマザーではなく一般的な修道女を示す「シスター」を名乗り続けています。
同会の活動だけでも素晴らしいことですが、この点においてもマザー・テレサがどれだけ尊敬されているかがわかりますね。
これからの宗教は争いではなく、こういう方向で話題になっていくといいのですが。
長月 七紀・記
【参考】
マザー・テレサ/wikipedia