1896年(日本では明治二十九年)12月10日は、ノーベル賞の提唱者であるアルフレッド・ノーベルの命日です。
彼の遺言によりノーベル賞が作られたこと。
その賞金が彼の資産から出ていることなどは有名ですが、ノーベル自身の人生はなかなかに辛いときもありました。
ノーベル賞については有名ですから、本日は彼の苦難を見ていきましょう。
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幼い頃から爆発物に惹かれていた
アルフレッドは、スウェーデンの首都・ストックホルムで生まれました。
父親のイマヌエルも発明を生業としていましたが、収入ははかばかしくなかったらしく、小さい頃は苦労していたようです。
8人も子供がいたそうなので当たり前といえば当たり前ではありますが……子供の死亡率が高かった時代なので仕方ありませんね。
事実、ノーベルの兄弟のうち半分は幼いうちに亡くなっています。
運よく成長できたアルフレッドは、父に似て工学に興味を持ち、特に爆発物に惹かれていきました。
ここだけ見るとアブナイ子供ですね。
父親も生計を立てるため、単身サンクトペテルブルクで爆発物や機雷の製造に成功しているので、血筋としかいえなさそうです。
無事にこれで一財産築いたらしく、イマヌエルは妻子をサンクトペテルブルクに呼び寄せました。
金に物をいわs……げふんげふん、余裕ができたおかげでアルフレッドには複数の家庭教師がつけられ、英・仏・独・露の四ヶ国語も話せるようになったといいます。
母国語であるスウェーデン語も合わせると……マルチリンガルにもほどがあるやろー(棒)
しかし最も興味を持ったのはやはり化学で、17歳のときにパリへ。
18歳でアメリカへ移り、化学を学んでいます。
そして勉強の成果なのか、24歳のときに初めて特許を出願しました。
プロポーズした女性にフラレ、次に惚れた相手には婚約者がおり
その後、父親とともにクリミア戦争で大儲けした……はいいのですが、終戦とともに破産しました。先行き考えなさすぎだろ(´・ω・`)
このためアルフレッドは両親とともにスウェーデンに帰国。
ロシアには次兄・リュドビックが残ってイマヌエルの工場を引き継ぎ、そっちはそっちでまた事業をやっていたようです。商才はリュドビックのほうがあったのかもしれませんね。
余談ですが、この間アルフレッドはお嫁さん探しもしています。
最初にプロポーズした女性には見事にフラれ、次に惚れた相手には既に婚約者がおり、最後の一人は18年間も付き合っていながら他の男性の子供を身ごもる、という史上稀に見る惨敗ぶりでした。
かつて話題になったコピペにあてはめるとすれば、こんな感じですかね。
”神様はアルフレッド・ノーベルに発明家の血筋、試行錯誤する精神、そして大きな富を得る運命を与えた。
天使は言った「神様、これでは彼が恵まれすぎています」
神様は言った「大丈夫。女運を壊滅的にしておいた」”
……ごめんなさい、あまり面白くないですね(´・ω・`)
ニトログリセリンの研究に没頭し、弟と助手を喪う
スウェーデン帰国の後、アルフレッドはニトログリセリンの安全な製造法および使用法を研究し始めます。
「爆発物そのものが危険だろ」というツッコミをしたくてたまりませんが、それは屁理屈というものですね。
しかし、タダでこの研究は成功しませんでした。
研究中に爆発事故を起こしてしまい、弟と5人の助手が死亡するという惨事が起きています。
このためストックホルムでの研究と開発が禁じられ、ドイツ・ハンブルクに工場を作ることになりました。
尊い犠牲の上、ニトログリセリンのより安全な使用方法としてダイナマイトが発明されたのは、アルフレッドが33歳のときのことです。
改良を加えた末に、ダイナマイトは世界中で採掘や土木工事に使われるようになりました。
事業はどんどん拡大し、38歳の頃には大規模な工場でダイナマイトを生産、50カ国で特許を取得して、100ヶ所近くの工場の主になるという大富豪になっていたそうです。
どれほど利益が出たのか、想像するのもアホらしくなりますね。
お金以外にも、スウェーデン王立科学アカデミーの会員になり、スウェーデンのウプサラ大学から名誉学位・フランスからは最高勲章・レジオンドヌール勲章を受けています。
ここが彼の人生の頂点だったでしょう。
新聞の見出しに「死の商人アルフレッド・ノーベル死去」
しかし、アルフレッドの後半生は幸福とは言い切れないものでした。
知人に発明を9割5分(※イメージです)ほどパクられて新しい特許をとられるわ、兄と母をほぼ同時期に亡くすわ、心臓病が悪化するわ……。
しかも、お兄さんが亡くなった時には人違いで「死の商人アルフレッド・ノーベル死去」と新聞に書かれてしまっています。
今だったら名誉毀損で訴えられますよね。
アルフレッドはこの一件で、自身が世間からどのように見られているかということを強く意識するようになりました。
そのために、ノーベル賞の設立に関する遺言状を書いたのです。
興味深い……といってはなんですが、死後の評価を気にした割に、生きている間の評価について弁明したような話はないみたいですね。
まぁ、初っ端から戦争でお金儲けしてたわけですから、その辺は自覚があったのでしょう。そこで開き直っていたら、ノーベル賞は生まれず、莫大な資産はすべて親戚のものか、スウェーデンもしくはノルウェーのものになっていたのかもしれません。
彼が生きていた当時はスウェーデン・ノルウェーは同君連合だったので、これを解消するとき揉める原因になったおそれもありますね。
ある意味、ノーベル賞の設立自体がノーベル平和賞ものになったともいえそうです。
最後まで女性運も悪く……
ちなみに、彼の女運の悪さについては死後も続きました。
アルフレッドをフった二番目の女性は五ヶ国語を解する才女で、彼の死後20年ほど経ってからノーベル平和賞を受賞しています。
三番目の女性は、ノーベル財団に自分とアルフレッドの間のラブレターを全て売りつけ、巨万の富を築いたとか。
つまり、アルフレッドの遺産のうちいくらかはフラれた相手に渡ってしまったわけです。
……死後の評価を気にしていた人にこの仕打ちとは、いくらなんでも過酷すぎませんか神様……。
聞いてるほうが泣けてくる(`;ω;´)
12月10日はノーベル賞受賞者の話で持ちきりになりますけれども、同時に彼の傷心ぶりを偲びたいものですね。
長月 七紀・記
【参考】
アルフレッド・ノーベル/wikipedia