1965年(昭和四十年)9月4日、アルベルト・シュバイツァーが亡くなりました。
医学・哲学・音楽・神学という文武両道ならぬ文理両道だったドイツの方で、19世紀生まれの白人でありながら「人類皆兄弟」として人権活動も行い、ノーベル平和賞を受賞したという人です。
しかも実家は牧師さんで、裕福な家庭でした。
つまり全方面において「勝ち組」だったわけですが、そんな人がなぜ天狗にならずヒューマニストになったのか……。
喧嘩によって変わったシュバイツァー博士
シュバイツァー博士が変わったキッカケ。
直接の契機は、幼い頃同級生とケンカしたときの口論だそうです。
彼は元々体力がハンパない体でした。それを差し引いても喧嘩に圧勝してしまったときのこと。
負けた同級生が
「俺だって、お前みたいにいつも肉を食べられれば負けたりしないんだからな!!」
と捨て台詞を吐いたとき、シュバイツァーは大きな衝撃を受けました。
自分の家が恵まれていることは理解していたでしょうけども、面と向かって言われたことはなかったのでしょう。
幼いながらに、シュバイツァーは「自分もあの子も同じ人間なのに、なぜ自分だけが恵まれているのだろう?」という疑念を抱きました。
ここから後々「異なる人種の人々も兄弟である」と考えるようになっていきます。
30歳になってから医学部に入る
とはいえ、いきなり哲学や福祉の世界に入らなかったというのがまた、頭の良い人の成せる業。
なんでも「30歳までは芸術と科学を学び、その後世の中に尽くしたい」と考えていたそうです。
キリストが30歳から布教活動を始めたため、牧師さんの家に生まれたシュバイツァーにとって30歳というのはとても大切な節目に思えたのでしょう。
そしてその理念通り、その歳まではストラスブール大学(フランス)で神学・哲学の博士号を取得し、それから新しく医学部に入り直して医師の資格を取りました。
この時点でとても常人には真似できません。
いったいどんだけ頭が良ければ、そんなに多方面の博士号を取るレベルになるんでしょうか。
”雲の上”とか”異次元”というのはおそらく彼のような人のことを言うのかもしれません。
現在ですと「ギフテッド」と称される頭脳の持ち主っぽいですね。
彼らの中には正義を重んじるタイプの方も多いという話ですから、シュバイツァーにも当てはまる気がします。
強制送還されても諦めず オルガンで資金を稼ぐ
ともかく念願かなったシュバイツァーは、アフリカのガボンという国(当時はフランスの植民地)で医療活動を始めました。
やっとこれで思い通りのことができる――そう思いきや、二度の世界大戦が勃発。
彼はフランスの大学出身であっても国籍がドイツだったため、強制送還の憂き目に遭ってしまいました。
しかしシュバイツァーは諦めません。
幼い頃から習っていて、こちらもプロレベルだったパイプオルガンの演奏会を開いたり、講演会を開いて再びガボンで活動するための資金集めを始めたのです。発想の転換がすげえ。
お金ができると、今度はアフリカとヨーロッパを度々往復し、現地への献身と地元での理解を促し続けました。
「有色人種にはなにしてもいい」という常識を少しずつ変える
ですが、いかに頭が良くても当時主流であった「白人はスバラシイ!」という潜在意識を完全に消すことはできなかったようで。
現地での評価はあまり芳しくありません。
彼の真意が理解されず、押し付けがましいと感じる人もいたでしょう。
それでも、大きな一歩だったことには間違いないはずです。
当時の風潮である「有色人種相手には何をしても良い」という非人道的な考え方を真っ向から立ち向かうのですから当人もラクではなかったはず。
考えが理解されずに、苦悩したこともあったでしょう。
そうした空気の中で一石を投じ、信念を貫いたことによって、現在まで少しずつでも人々の考え方が変わっていたのなら、彼の目的は今も達成される過程にあると思われます。
シュバイツァー博士はこんな言葉を残しております。
「楽観主義者には青信号しか見えていません。
同じように、悲観主義者には赤信号しか見えていません。
でも、賢者には両方の信号が見えているのです」
「今すぐにではなくても、いつか差別がなくなる可能性がある」
我々もそう信じたいものです。
私ごときが大きな話で恐縮ですが、それが人類一人一人の責任ではないでしょうか。
長月 七紀・記
【参考】
シュバイツァー/wikipedia