アレキサンダー大王/wikipediaより引用

世界史

カイロネイアの戦いとは?アレキサンダー大王が満を持してのデビュー戦!

古今東西「英雄」と称される人物はたくさんいます。
言葉のイメージ上いかにも最初から完璧な人物であったかのように思われがちですが、彼らにも青少年時代があり、そして初陣がありました。

紀元前338年8月2日に行われた”カイロネイアの戦い”も、世界的に有名な英雄の初陣として今に伝えられています。

アレキサンダー大王です。
ローマ帝国やモンゴル帝国に匹敵する「アレクサンドロス帝国」を一代で築き上げた英雄中の英雄ですね。

英語読みだと「アレキサンダー」で、現地読みだとアレクサンドロス大王になりますね。
今回は、検索数の多い「アレキサンダー大王」で進めていきましょう。

 


アレキサンダー大王は著名でも国は無名

「そもそもマケドニアってどこのどんな国よ?」
という声が聞こえてきそうですので、その辺から確認しますね。

マケドニアは、現在の地図でいえばギリシャの北・大雑把にいえばイタリアと海を挟んで東側にある国でした。

下記の地図ですと赤・緑・白・オレンジ・ピンクに色塗られた部分がマケドニア。
その下がギリシャになります。

マケドニア/photo by NikoSilver wikipediaより引用

歴史上ではあまり登場することない地名ながら、アレクサンドロスの功績により古代史では一定の地位を保っています。

ギリシャに近いためその影響も強かったですが、古くから都市国家ではなくある程度広範囲の領土を治めていたり、共通の王を掲げていたり、少し異なる発展の仕方をしました。

そして最初の王朝・アルゲアス朝の最後のほうの王様がアレクサンドロスです。

 


アリストテレスが先生だった

由緒正しい王様のところに生まれたアレクサンドロスには、高名な哲学者・アリストテレスが教師だったりします。

少し古いテレビ番組『トリビアの泉』のオープニングで流れていた
「すべての人間は生まれつき知ることを欲する」
でご記憶の方も多いでしょうかね。

哲学者なのでやっぱり小難しい理論を提唱する一方、「世間の必要性とあなたの才能が交わるところに天職がある」など、今なお納得できる明言も多々残っている人ですので、アレクサンドロスとその学友たちもそんな感じで学んでいたことでしょう。

アリストテレスの授業を受けるアレクサンドロス/wikipediaより引用

英雄譚には「若い頃は乱暴者だったが、よき手本となる人に出会って変わった」という話がつき物です。

が、アレクサンドロスはアリストテレスの教育のおかげでそんなこともなく、また一生文物のやり取りをしたり、よき師弟だったとか。
学友たちは、アレクサンドロスを支える部下となりました。

 


マケドニアとギリシャのせめぎ合う場所カイロネイア

こうして心身ともに立派な王子として成長したアレクサンドロスは、18歳のとき、父王・ピリッポス2世(英語読みだとフィリッポス)に従ってカイロネイアの戦いに挑みます。

現代では“ヘロニア”と呼ばれている場所で、当時はマケドニアとギリシャの勢力がせめぎ合う場所でした。

戦う相手は当然のことながらギリシャの都市国家・アテネとテーバイの連合軍。
マケドニアとは近いだけに、お互いの勢力に対して危惧を抱いていたのです。

この戦いでカギとなるのが、”ファランクス”と呼ばれるこの地域独特の陣形・戦法です。

マケドニア式ファランクス/wikipediaより引用

カンタンに言えば
「楯や槍で重装備を固めた兵士が、陣形を保ったまま進軍する」
というもので、正面方向への攻撃力は絶大でした。

前の者が倒れれば後方から別の兵が出てくるーーまさに「俺の屍を越えていけ」状態で、兵士たちの勇敢さがうかがえます。

しかしその一方で、側面や後方はほぼ無防備&方向転換が効かないという難点も持ち合わせていました。
真っ直ぐすぎると融通が効かないというのは人間も戦術も同じということですかね。

 

改良版ファランクス戦法

ピリッポス2世はかつてテーバイに人質として行っていたことがあり、ファランクス戦法の利点も欠点も知っていました。

そこで欠点を補うべく、兵装を工夫したり、複数の兵種を組み合わせることにより改良版ファランクスとでもいうべき陣形を生み出します。

具体的には、より長い槍を使って負傷する確率を下げ、小型の楯を胸に着けることによって致命傷を負うことも防ぎました。

また、従来のファランクスが歩兵中心だったのに対し、右翼や左翼に騎兵を、前衛に弓兵を置いて、片翼が苦戦してももう一方が奮戦しやすい&側面からの攻撃にも強いという「攻撃と防御が備わり最強に見える」的な戦法となりました。

歩兵が敵をひきつけ、その間に騎兵が背後に回るという「鉄床かなとこ戦術」もこの陣形により可能となったもので、後にアレクサンドロスが大帝国を築く途中の戦いでも多用され、連勝を呼んでいます。

もちろんトーチャンのピリッポス2世も使っており、そのおかげでカイロネイアの戦いはマケドニアの勝利となりました。

中でもギリシャ最強と言われていた“神聖隊”という歩兵隊は300人中254人が戦死したといわれており、マケドニア式ファランクスの威力がわかります。
少人数の隊とはいえ、戦死率約85%ってどうなの……。

古代史にありがちな「百万の大軍を100人で倒しました!」な話ではなく、信憑性のある数字だけに血が凍りそうです。

イタリア戦争・ノヴァーラの戦いでスイス軍がやってのけた
「3分で700人のフランス兵をブッコロしました」
と、どっちがえげつないですかね……。

イタリア戦争ノヴァーラの戦い 各国がやたらめったら参戦してカオス!

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20歳で跡を継いだアレキサンダー大王

こうしてカイロネイアの戦いはマケドニアの圧勝に終わり、ほとんどのギリシャ都市国家(ポリス)はマケドニアの傘下に入ります。

「よーしトーチャンもっと頑張っちゃうぞー」ということでピリッポス2世はペルシア方面(現在の中東方面)へも攻め込むべく準備をしていましたが、二年後に暗殺されてしまいました。

かくして若干20歳でアレキサンダー大王がマケドニア王に就任。

周辺からはナメられて戦を吹っかけられましたが、見事返り討ちにしてペルシア遠征をし、国土を拡大していきます。
偉大な大王の業績は、トーチャンの意思を継いだものだったんですね。

アレキサンダー大王の話は壮大すぎてなかなか小説やドラマになっていませんが、英雄にしては人間味溢れる人ですので、追いかけてみると面白いですよ。

個人的には阿刀田高先生の「獅子王アレクサンドロス」をオススメします。

長月 七紀・記

【参考】
カイロネイアの戦い/wikipedia


 



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