コンスタンティノープルが陥落し、東ローマ帝国が滅びた時。
”イタリアは都市国家の集まりに過ぎなかった”というお話をさせていただきました。
もっと詳しく言いますと、さらにその都市国家と周りの国がくっついたり離れたりして、イタリア全土は半世紀近くずっと戦争をしていたのです。
・温暖な気候であること
・優れた文化を持つこと
・カトリックのトップがいること
・そして何よりローマ帝国発祥の地
他国から見れば「ここ、めっちゃ欲しいわ~」という土地だったからでしょう。
上記いずれの条件が一つだけでもあれば、充分に戦争の原因になります。
このため、イタリア半島に接している国で攻め込んでこなかったところはないんでは?というぐらいドンパチが続いていました。
各都市でバラバラなイタリア半島
それに加え、当のイタリア諸都市もよろしくないスタンスでした。
彼らはあまりにも”オレの街”という意識が強く、連合して他国に抵抗しようという気がまるでなかった(できなかった?)ので、余計よそからの介入を招いてしまうのです。
ザッとこんな流れですね。
↓
② ナポリとれなかったフランスがミラノ狙う
↓
③ スイスなど神聖同盟できた!
15世紀から16世紀にかけて行われたこの一連の戦争を、そのものズバリ「イタリア戦争」と呼びます。
19世紀にサルデーニャ王国のオジサマ達が頑張った戦争(イタリア統一戦争)とは違いますので、学生の皆さんは要注意です。
学者先生方ももうちょっとわかりやすい名前にしてくれればいいのになあ。
まあそれはさておき、1513年(日本の永正十年)6月6日は、その中でも激戦だったといわれているノヴァーラの戦いがあった日です。
ノヴァーラとはイタリア北部の都市で、ミラノから40kmほどのところ。
スイスやフランス方面との商業・交通の拠点として栄えた街です。
豊かな街が戦争の舞台になる――もはやテンプレですね。
ハプスブルク家に囲まれフランスピンチ
イタリア戦争のきっかけは、半島南部にあったナポリ王国の継承権争いでした。
定番すぎて、もうツッコむ気になれない理由ですね。
まず、ここを巡ってフランスの貴族とスペインの貴族が争い、スペイン側が勝ってナポリ王国を傘下に組み入れました。
しかし、横入りがやってきます。
神聖ローマ皇帝を代々輩出していたオーストリア(ハプスブルク家)が
「イタリアには教皇がいるんだから、ローマ帝国の後継者であるウチが治めるべきですよね^^」
と言い出し、大ざっぱに見て三つ巴の構図が出来上がったのです。
既にスペインにもハプスブルク家の人が行っていたので、フランスからすれば、ここでイタリアを取られると四方向のうち三方(しかも全部温暖な地域)を塞がれる事態に陥ることになります。
現代日本で言えば、アメリカ・中国・東南アジア及び中東方面への航路を全部塞がれたようなイメージです。
どう考えてもピンチです。
各国が次々に参戦してきた!
そこでフランスは「じゃあこっち取るもんね」と言わんばかりに北部イタリア・ミラノ公国の継承権を主張。
それを機にご近所のスイスまで争いに加わり、さらには直接の繋がりすらない
・イングランド
・スコットランド
・オスマン帝国
なども我も我もと名乗りを上げて、完全にカオスと化しました。
ナポリやミラノの住民にとってはいい迷惑でしかありません。
皆さまお察しの通り、争いはスグには収まりませんでした。
ナポリはスペインのものということで一旦落ち着いたのですが、北部イタリアを巡る戦いが続いたのですね。
構図としましては以下のように切り替わります。
vs
フランス
前者の同盟は言いだしっぺが教皇だったので【神聖同盟】という厨二的な名前がついています。
※ウィーン会議のときにも同じ名前が出てきます(1815年)
フランスは一時ミラノを占領しましたが、神聖同盟側はもちろん気に入らないので頑張って追い出しました。
しかしその程度で諦めるはずもなく、翌年再びミラノを手中に収めるべくフランスが進軍してきます。
その過程で足がかりとなるノヴァーラを包囲し、神聖同盟側と戦争になったのでした。
永世中立前のスイスは結構好戦的
ノヴァーラで実際に戦ったのは、フランス軍vsスイス軍です。
「なぜスイス?」と思われたかもしれませんが、これは単純な話で、スイスがミラノの味方についたからです。
スイスはスイスで自国の領土を拡張したい。
そのためにはイタリア方面にフランスが進出してくると邪魔だったので、「ミラノの皆さんをお助けしましょう!」というよりビジネスライクだったようです。国と国との付き合いなんてそんなもんで、世知辛いですなぁ。
スイス軍(傭兵含む)は世界史上稀に見る精強な軍隊の一つでして、このときの戦いぶりは日本語的な表現で言えばまさに「鬼」。
特に銃火器による攻撃は容赦のよの字もないほどで、3分でフランス兵が700人も死んだとさえいわれています。
損害もフランス軍のほうが圧倒的に多く、5,000~10,000人ほどの死傷者を出したとか。
フランス軍の歩兵が2万程度だったそうなので、実に1/4~1/2が戦闘不能に陥ったことになります。
今の軍事基準で言えば”壊滅”ですね。
フランス軍はここで撤退したのですが、もしそのまま踏ん張ってたら文字通りの意味で全滅だったでしょうね。
3分おきに700人死んでるような状況じゃ、生存者は士気も何もあったもんじゃない。スイス軍KOEEEEE!
マリニャーノの戦いで鬱憤晴らす
この散々な負けっぷりに憤慨したフランス軍。
次のマリニャーノの戦いで勝利を収め、ミラノ一帯を支配下におきます。
損害的にもそっくりそのままやり返したような数です。いろんな意味で怖いわ。
ちなみにウィキペディア先生では【イタリア戦争=1494年~1559年】になっていますが、実際のいざこざは【1430年代】あたりから始まっており、まさに東ローマ帝国が「ヘルプミー!」と言っていた頃でした。
これでは元は同じ国とはいえ、よそを助けに行ってるヒマはないですよね。
そもそもその前に第四回十字軍でいろいろやらかして……ゲフンゴホン。
ちなみにノヴァーラの戦いもマリニャーノの戦いも英語版を参照にしたのですが、挿絵をよく見るとなかなかエグいので拡大表示はオススメしません。
想像力豊かな方はご注意を……。
長月七紀・記
【参考】
Battle_of_Novara_(1513)/wikipedia
イタリア戦争/wikipedia