1944年(昭和十九年)6月6日は、第二次世界大戦におけるノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)が開始された日です。
上陸自体の作戦名は「ネプチューン作戦」ともいいます。
ファンタジー系の小説やゲームが好きな方にはおなじみ、ギリシア神話の海神の名前ですね。
海の神様は上陸しないと思うんですが、
「海神を味方につけて勝ってやるぜ!」
みたいな感じなんでしょうか。
実は海からの上陸だけでなく、パラシュートによる降下部隊も多数参加していました。
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【ヨーロッパ西部戦線9行まとめ】
ただでさえややこしい近現代史。
その中でも、第二次世界大戦は屈指の難度ですよね。
戦線が広すぎ&同時進行が多すぎるのがその理由ですが、まずはノルマンディー上陸作戦に関することだけを抜き出し、マトメてみましょう。
①ドイツがポーランドに侵攻
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②ドイツがベルギー・オランダ・ルクセンブルク、ノルウェーに侵攻
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③ドイツがフランスへ侵攻・占領
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④バトル・オブ・ブリテンでドイツが負ける
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⑤ドイツがイギリス攻略を諦めてソ連侵攻(独ソ戦)を開始
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⑥ドイツがフランスを封鎖し、イギリスとの連携を断つ
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⑦ソ連「ウチがキツイから大西洋側もつついてよ」(超訳)と英米に要求
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⑧ノルマンディー上陸作戦計画・実行 ←今日この辺
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⑨フランス解放・ドイツ攻略
ポーランド侵攻は東部戦線に入りますが、大戦のきっかけなので入れさせていただきました。
ドイツ関連だけだと割とシンプルですね。
本当はここにイタリアとかアフリカ戦線が絡むのですが、今回の話には直接関わってこないので割愛しましょう。
仏元大統領のド・ゴールもヤル気まんまんだったが
英米軍の上陸作戦における候補地は、アフリカ北西部やノルウェーなど、他にもいくつかありました。
しかし準備が整わなかったり、効果が薄そうということでとりやめられ、最終的にフランス北部沿岸のノルマンディーが選ばれたのです。
当初は英米軍のみで実行されることになっておりました。
が、さすがに「当事者に知らせないのはマズくね?」ということで、イギリスに亡命していた元大統領シャルル・ド・ゴールにも通知され、自由フランス軍も加わることに。
ド・ゴールは「フランスを取り戻すための戦いなのだから、フランス人がやるべき!」とやる気満々で参加を決意したのですが、亡命中ということもあって大した兵力は用意できませんでした。
ドイツ側でも「いずれ英米軍はフランス上陸作戦をやるだろう」と想定。
しかし、上陸地点は港町カレーだと思っていたので、そちらに防備を回すという見事なすれ違いが起きます。
計画と言っても「上陸してくるところを水際で叩く」という単純過ぎるものでした。
また、ドイツがヨーロッパ西部に築いていた「大西洋の壁」も完成とは程遠い状態であり、防御も迎撃も準備が不十分な状態でした。
さらに、チョビ髭は「イギリス軍は、こっちが占領しているチャンネル諸島(ドーバー海峡の東にあるイギリス領の島々)を死に物狂いで取り返すに違いない」と思っていたようです。
そのため、大陸よりもチャンネル諸島の防衛に力を割いていました。
リーダーの思考が運命を分けていた!?
一方のイギリスですが、同国は昔から伝統と同じくらい「実用性」を重んじる国です。
チャンネル諸島を取り返しても、この時点で戦略的なメリットはほとんどなかった上に、民間人を多く巻き込む恐れがありました。そのため同諸島の奪還は考えておりません。
対して、チョビ髭は、ねちっこいというか恨みを忘れないタイプ。
だからこそ「イギリスが自国領土を放置するなんて、自国の沽券に関わるようなことをするわけがない」と思っていたようです。
ここらへん、価値観の違いというか、戦術的センスや知識の差というか。
「自分がこう思うんだから、相手もそうに違いない」という思い込みのせいというか……。
ちなみに、チャンネル諸島に送り込まれたドイツ軍(※約4万)は、イギリスによる海上封鎖で食糧も物資も不足して悲惨なことになっていました。
つまり「戦略的に意味のない場所に行かされた上、食うや食わずの苦しみを味わわされる」という最悪の事態に陥ったわけです。
ついでにいうと、この頃のドイツは独ソ戦のためにかなりの兵士を東部戦線に送っていて、西部戦線には寄せ集めの非ドイツ語圏出身者ばかりでした。
指示がスムーズに行き渡らないばかりか、一部の戦場では笑えない状況にあったようです。
「ポーランド人部隊がドイツ人指揮官を射殺して連合軍に投降した」
「3人のアメリカ兵に40人が投降した」
どんだけgdgdなんだ……。
上にセンスがないとやっぱり下が苦労するもんですね。
さすがにチョビ髭以外の幹部は「ノルマンディーのほうがヤバくね?」と気付いており、ロンメルも急ピッチで地雷などを用意しています。
連合軍に「砂漠の狐」と畏怖されたドイツの英雄ロンメルとは?
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最大の激戦地オマハ・ビーチ 映画の如き凄惨な現場に……
これに対し、英米軍も完璧ではありません。
上陸作戦開始の暗号がドイツ軍にバレるなどのポカがありました。
そもそも暗号が発せられてすぐ実行というわけではなかったことや、直前にドーバー海峡付近で暴風雨が起きてずれ込んだため、6月6日実行に至っています。
ちなみにドイツ軍ではこの暴風雨が9日まで続くと考えており、幹部が休暇要請を出すほど楽観視していました。
絵に描いたような死亡フラグですね。
そして運命の6月6日。
英米軍は、日付が変わると、数カ所に分かれて作戦を開始しました。
まず英米軍の空挺師団が内陸部へ侵攻するための橋を確保するために動きます。
空挺師団とは、飛行機で現場近くに行き、パラシュートで降下して作戦を始める部隊です。
同時進行でノルマンディー西部のコタンタン半島にも別の空挺師団が降りましたが、この方面ではドイツ軍が川をせき止めて沼地を作っており、そこにハマって溺死した兵も多かったとか。
しかし、フランスで最初に街を開放したのもこの方面だったりします。
そして最も有名なのが、オマハ・ビーチをはじめとした文字通りの上陸部隊です。
最大の激戦地としてもよく知られていますね。
映画『プライベート・ライアン』が公開されたとき、当時この上陸部隊にいた元兵士のご老人が「これに風と匂いがあれば、本物の戦場だ」と評した――なんて話を見かけた気が。
それでも5分ほどカットしてあるそうです。
もしもカットしなければ、同作はR18Gになっていたとか。
というか、カット後でもあんな感じですから、一体どんなシーンだったのか、知りたいような知りたくないような……。
パリ解放で上陸作戦も成功ということになってますが
油断しきっているところに、多方面から攻めこまれたドイツ軍。
6月の前半は何とか粘りましたが、22日には東部戦線でソ連軍が反撃を開始したため、完全に挟撃される形となります。
最終的に、8月25日には英米軍がパリを解放したため、ノルマンディー上陸作戦も成功ということになっていますが、各所での段取りの悪さや犠牲の大きさからするとなかなか厳しいところがあります。
ドイツ国内では、1944年のクリスマスシーズンに「実用性からすると(プレゼントには)棺桶が一番だ」とまで追い込まれたそうですから、心理攻撃としては大成功だったかもしれませんけど。
フランス全土の解放は、1945年にイタリア戦線が進み、南東方面からの挟撃ができてからのことです。
ヨーロッパ戦線の最終目標だったドイツ降伏はさらに後、1945年5月初旬でした。
日本が降伏する約3ヶ月前ですね。
この辺からすると、アメリカが太平洋戦線の終結を急いだのもわかるような気がします。
それにしたってやり方が最悪ですけども。
長月 七紀・記
【参考】
ノルマンディー上陸作戦/wikipedia