あまりニュースにならない国って「影が薄い」みたいな感じになりますよね。
でも、ちょっと調べてみると「実は○○の発祥の地でした」とか「あの偉大な××さんの出身地でした」なんてことがあるもの。
1333年(日本では鎌倉時代終了の年・元弘三年)の3月2日、ポーランドの王様だったヴワディスワフ1世が亡くなりました。
ポーランドという国がどんなところか?
イメージも湧かない方が多そうなので、有名どころを並べるところから始めてみましょうか。
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ショパンやキュリー夫人にズブロッカ
まず有名人をピックアップしてみましょう。
・音楽家のショパン
・ノーベル化学賞を初めて受賞した女性化学者マリー・キュリー
第二次大戦中にはドイツに占領されていたため、アウシュビッツ収容所でも有名ですね。あまり喜べませんが。
別の角度から注目してみますと、1993年以来、20年以上も不況になったことがないそうです。
お酒が好きな方であれば、アルコール96%のウォッカ「スピリタス」や、桜餅っぽい香りがする「ズブロッカ」もおなじみでしょうかね。
地理的にはドイツの東側のお隣さんです。
区分としては中欧扱いだったり東欧扱いだったりしますが、これは地域で見ると前者、冷戦時代に社会主義国の一員だったことから後者のイメージがついたからでしょう。
次にヴワディスワフ1世の時代までのポーランドの歴史をざっくり見ておきましょう。
11世紀には周辺国を従える大国の一つだった
ポーランドの歴史を一言でマトメますと。
【隣接するほとんどの国が大国だったため、古代から東西の強力な国々に翻弄されてきた地域】
となりますね。
ものすごくザックリ言いますと、世界史上、何度も分割&滅亡しております。
ただし、人がよく出入りするということは、文化も発達しやすい――ということで、世界最古のチーズ製造施設の跡がポーランドで発見されたのも、かつて乳製品を作る技術が集約された結果かもしれません。
また、立憲君主主義の大原則「君臨すれども統治せず」という言葉も関係があります。
この言葉、イギリスのイメージが強いのですが、実は17世紀ポーランドのお偉いさんが生み出したものだったり、よくよく調べてみるとスゴイものを数多く残している国なのです。
8世紀頃には王朝ができており、966年には王自らキリスト教に改宗してポーランド公国という国ができました。
そこから約60年後(1025年)にはときの教皇から王国と認められ、徐々に大きな国になっていきます。
この頃は現在のポーランド・チェコ・スロバキアのほぼ全土+オーストリア・ハンガリー・ウクライナの一部、つまりドイツとロシアの間のほとんどを領土にしたこともあり、大国の一員でした。
領土を七分割して国内大混乱 そのまま弱体化へ
しかし、1138年、その栄華は突如崩壊します。
とある王様が領土を七つに分割して統治させるというお決まりの大失態をやらかし、国内でドンパチを起こしては分裂して弱体化してしまうのです。
ローマ帝国だって分割したせいで滅びた(超略)のに、なぜそこを真似たのか……あるいは自然とそうなったのか。
さらに13世紀に入ると、モンゴルからの厄介なお客さんが来て国土は荒廃。
地域によってはほぼ無人状態になってしまいました。
幸いモンゴル軍は比較的早く去りましたが、戻った住民だけでは人手が足りず、ドイツ以西から開拓者を募ることとなります。
これについては経済・文化面でのメリットもあったものの、今日まで残る民族紛争の一因ともなっています。
移民政策失敗の一例ともいえますかね。
ともかくこの段階で王様になったのが、前述のヴワディスワフ1世です。
農民主体の軍隊を率いてついに統一を果たす
舌噛みそうな名前ですけど、あっちの言葉だから仕方ない。ついでに言えばこれより前の12世紀にも「ヴワディスワフ1世」がいたので実にややこしい。
今回お話しするのは「ヴワディスワフ1世ウォキェテク」と呼ばれる14世紀ごろの人です。
この人は「短身王」という実に不名誉なあだ名をつけられました。
たぶん小柄だったんでしょう。
ヨーロッパって、ほんと王様に対して変なあだ名つけすぎで愛くるしい。
それはともかく、先王の暗殺や亡命を余儀なくされるなど苦難もありながら、互いに引っ掻き回して滅茶苦茶になっていたポーランドを統一するため、ヴワディスワフ1世は頑張りました。
農民が主体だった自軍をよく指揮し、親族との争いに勝ってポーランド王位につきます。
ときにはドイツ系移民の反乱に遭ったこともありましたが、ポーランド人たちから支持を得ていたので、支配権を奪われるようなことはありませんでした。
日頃の行いってホント大事ですね。
しかし、ポーランド王位を巡って争った近所の王様がドイツ騎士団と手を組んで挟撃してきたので、腰を落ち着けるヒマもなく戦い続けます。
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最終的には”プウォフツェの戦い”というこれまた舌を噛みそうな戦いでポーランド側が勝利。
領土と王位を守ることができました。
王様もやっぱり体が資本……73歳で天寿を全う
というわけで一言でいえば「さまざまな苦難の上でポーランドという国を固め直した」という人。
領土だけでなく法制度でもそうでした。
ドイツ系と平行してポーランドに入ってきていた、ユダヤ人たちの権利を保障する法律を作っています。
もちろん特別扱いではなく、「ポーランド人と同等の権威を認める」というものでした。
上記の通り、モンゴルに荒らされまくって人がいなくなったところに来てくれたのですから、そのくらいの保障はしないといかんというわけですね。
そして一生仕事に明け暮れたヴワディスワフ1世は1333年に73歳の天寿を全うします。
実は上記のプウォフツェの戦い、彼が亡くなるわずか2年前のことだったりします。
さすがに前線で指揮を取ったりはしていなかったでしょうが、王様が元気でないと軍の士気は落ちやすいですから、平素はかなり健康な人だったんでしょうね。
人生のほとんどが国内外との戦争であったことを考えると、「体が資本」ということを体現した王様ともいえそうです。
長月 七紀・記
【参考】
ヴワディスワフ1世_(ポーランド王)/Wikipedia