いよいよ美濃攻めを本格化させた織田信長。
数多の合戦や調略が繰り返され、今回もそのうちの戦いの一つ「堂洞合戦(どうほらがっせん)」です。
『信長公記』には「砦」と記されているのですが、ここは数々の曲輪(くるわ)や堀があったので、もはや「城」というイメージで良さそうな気がします。
曲輪とは、塀などで区画したお城の【防御施設】ですね。
砦と城の境界線が曖昧なことがここからもわかりますね。
本稿では、信長公記の記述に従い、「堂洞砦」と表記させていただきます。
まずは当時の状況を少し補足しておきましょう。
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加治田城主の娘・八重緑が人質にされていた
かつて斎藤方だった加治田城が信長方に鞍替え。
宇留摩城(鵜沼城)と猿啄城が落ちてから、美濃方にいくらかの動きがありました。
ひとつは、信長に落とされた二つの城の敗残兵が、美濃方の近隣拠点・堂洞砦へ落ち延び、合流したことです。これは極自然な流れですね。
もうひとつは、美濃方が加治田城をもう一度味方につけようとしていたらしきことです。
実は、加治田城の主・佐藤紀伊守忠能の娘である八重緑(やえりょく)が、堂洞砦の主・岸信周に養女として差し出されていました。
事実上の人質です。
この状況で加治田城が信長方についたとなれば、人質である八重緑の命はあってないようなもの。
しかし、そういうときに再度翻意させるために取るのが人質です。
ですから、加治田城へ
「こっちには人質がいるんだから、もう一度考え直せ」
という旨の知らせが届けられたでしょう。
堂洞砦の近くで磔にされた八重緑の悲劇
それでも佐藤紀伊守の決意は変わりませんでした。
結果、八重緑は堂洞砦の近くにある山で磔(はりつけ)に処されてしまいます。戦国の世では珍しくない話ですが、なんとも言えない気分になりますね……。
こうして「二度と美濃方にはつかない」と意思表示をした加治田城を攻めるため、美濃の斎藤龍興は長井道利の軍を派遣しました。
ます、加治田城から2.7kmほどの堂洞に砦を構え、岸勘解由左衛門という武将と、多治見一党をここに配備します。
道利本人は、この近隣で鍛冶師の村として知られていた関(関市)から、5.5kmほど離れたところに本陣を置きました。
これらの動きを知った信長は、すかさず加治田城救援の兵を出します。
せっかく得た美濃の足がかりですし、前線の城を救助するのは「後詰」と言って、当時の領主には欠かせない行軍です。
そして永禄七年(1564年)9月28日、堂洞砦(どうほらとりで)を包囲し、攻撃を始めました。
加治田城を守るのではなく、敵の拠点を攻めに行くのがミソですね。
※黄色の城が織田方で、下から宇留摩城(鵜沼城)・猿啄城・加治田城
※赤色の城が斎藤方で、左から稲葉山城(後の岐阜城)・堂洞砦
二の丸へ松明を投げ入れよ
堂洞砦は周囲の南北西側が谷に囲まれ、東側が丘続きという地形の要害でした。
特にこの日は風も強く、なかなか攻めにくい状況だったとか。
新暦に直すと11月始めあたりの季節なので、木枯らしが吹いていたのかもしれません。
信長はこの”風”を利用しようと考え、ある策を講じました。
「松明(たいまつ)を作り、砦の塀際まで寄ってから中へ投げ入れよ」と命じたのです。ちょっとした火計ですね。
火矢では風に流されて味方の陣に燃え移る可能性がありますが、松明ならある程度コントロールできるからでしょう。
一方、美濃方も織田軍がやってきたことに気付いていました。
美濃方本陣の道利は、織田軍の背後へ回り込んで攻撃しようとしましたが、あらかじめ信長も迎撃用の兵を用意しており、これは失敗に終わります。
信長公記著者の太田牛一も大活躍!
そして正午ごろ、織田軍は堂洞砦への攻撃を開始。
上記の命令通り、織田兵は松明を次々に投げ入れ、砦の二の丸を焼き崩しました。
とはいえ敵もさるもの引っ掻くもの、二の丸にいた兵はすぐに本丸へ集合し、抵抗を続けます。
信長公記の著者である太田牛一も、二の丸付近の高所から次々に矢を放ち、敵兵を仕留めて見事な働きをしたそうです。
これには信長も喜び、三度にわたる称賛の使者を出し、褒美として知行も増やされたとか。
信賞必罰の早さも、信長の大きな特徴の一つですね。牛一としては誇らしかったことでしょう。
戦は長引き、やがて日が暮れて午後六時を過ぎました。
しかし、織田軍が本丸に取り付き、河尻秀隆が一番、次に丹羽長秀が突入されると、敵方の戦いぶりも見事ながらついに力尽き、織田軍がついに勝利を得ました。
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斎藤家の本隊が突如攻めてきた
この夜、信長は自ら加治田城へ出向き、城主の佐藤父子に対面して、そのまま泊まったといいます。
二人は感激し、言葉も出なかったそうで。
いくらかの脚色はあるにせよ、信長が
「お前らの忠義はよくわかった」
と励ましたことは間違いありませんし、佐藤父子もそれを感謝していたでしょう。
翌29日、堂洞砦の近くで首実検をし、織田軍は引き上げ準備をはじめました。
するとそこへ、関方面から長井道利、そしてなんと稲葉山から斎藤龍興自らが兵を出してきたため、さぁ大変。
美濃方の兵は、合わせて3,000以上だったといわれています。
一方、信長軍は7~800程度しかなかったため、戦闘が始まると押され、死傷者が多く出てしまいました。
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こうなると最悪、軍の壊滅どころか総大将の討ち死にまでありえますが、さすがにそこは信長。一度広い平野まで兵を退かせ、自ら馬を乗り回して状況を再確認しました。
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そして負傷者と使用人たちを先に退かせ、その後方(敵に直面する方)に足軽を配備して、追撃に備えさせています。
総大将の態度は、軍の士気や結束に直結するものです。このときの織田兵も、信長の冷静さを見て落ち着きを取り戻していたのでしょう。
日頃から厳しい戦地へ自ら突入していく信長ならではの見事な次善策と言えますね。
またも千載一遇のチャンスを生かせなかった斎藤龍興
結果、織田軍は、無事に撤退することができました。
美濃方は千載一遇の好機を逃した形になり、実に悔しがっていたといいます。そりゃそうだ。
斎藤氏からすれば、これで信長を仕留めそこねたのは三回目です。
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次回はいよいよ、斎藤氏の本拠・稲葉山城へ攻め込んでいくのですが……その前に、堂洞合戦に関する後日談をひとつ添えておきましょう。
佐藤氏から堂洞砦に出されていた人質・八重緑の亡骸は、佐藤氏の家臣・西村治郎兵衛が密かに奪い返し、龍福寺(りょうふくじ・岐阜県加茂郡)に葬られたといわれています。
ここは紀伊守の母がかつて庵を結んでいた場所で、合戦の翌年、紀伊守がお寺を建てたのがはじまりです。
紀伊守は娘だけでなく、嫡男や母親も近い時期に亡くしていました。また、嫡男を亡くしたことで直系が絶えてしまい、信長の命で養子を迎えて家を存続させることになります。
紀伊守は龍福寺を建てて家族の菩提を弔うことで、自分の気持も整理したのかもしれませんね。
隠居後も織田氏の老臣としての立ち位置を保ち、信長が京都に進出した後は、公卿たちとの交流を楽しんでいたといわれています。
これもまた、戦国時代の武士の生き様でしょう。
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信長公記をはじめから読みたい方は→◆信長公記
長月 七紀・記
富永 商太・絵
【参考】
国史大辞典
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