大体の場合、ちょっと厳しい顔つきの気難しい人物を想像するのではないでしょうか。写真や肖像画でもほとんどそんな感じですしね。
しかし、中身までそうとは限りません。
エピソードを探してみると、意外な面を持っていることもたくさんあります。
文久二年(1862年)1月19日、明治の文豪として名高い森鴎外が誕生しました。
彼の文学に関する話は控え、ここでは鴎外のセンスといいますか、感受性について考えてみたいと思います。
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お抱え医師の家に生まれた森鴎外 10歳で上京
まずはその土台となる、生い立ちやドイツ留学の話をさらっと見ておきましょう。
鴎外は、現在の島根県にあった津和野藩というところに生まれました。
代々藩主のお抱え医師の家でしたが、お爺さんとお父さんは婿養子だったので、森家にとっては何十年ぶりかの男子誕生ということになります。
そのため期待の長男として幼い頃から漢書だけでなくオランダ語も学び、結果的に維新の激動を生き抜く下地を作ることができました。
10歳で父親と共に上京し、現在の墨田区へ移住。この頃、東京の医学校ではドイツ人によるドイツ語での講義が始まっており、その準備のため私塾に入りました。
一時は通学の不便さなどから転々と引越しをしますが、その程度で勉強に支障が出るようなヤワな神経ではなかったようです。この10歳児すげえな。
そして医学校に入った後も和漢の文学や漢方の医書を多く読み、さらに見識を広げていきます。
残念ながら卒業時は最優秀グループからは外れてしまい、就職はスムーズにはいきませんでしたが、同期の一人が旧陸軍へ推薦してくれたため腰を落ち着けることができました。
ドイツでは勉強だけでなく幅広い交流を
その後四年ほどドイツへ留学しています。
下宿生から軍人・貴族・王室関係者まで幅広く交流し、美術館や劇場へも出入りしていたそうです。この辺はさすが由緒正しいお家の人という感じがしますね。
ドイツ語もめきめき上達し、ドイツ国内で行われた赤十字国際会議で「ブラボー!」と言われるほど優秀だったとか。その言語ならではの言い回しができないと通用しなかったりしそうですが、そこまでできていたんですかね。どっちにしろすげえ(二回目)。
本格的に文筆活動を始めたのは、ドイツ留学から帰国した後のことです。
「舞姫」の元ネタの一つがその時期に来日していたドイツ人女性であったことは有名ですね。後々文通もしていたそうです。
日本初の”軍神”こと広瀬武夫も留学先で出合ったロシア人女性と文通をしていましたけども、当時の軍関係者の間で流行ってたんですかね。
まあそんな感じで、一言でいえばインテリ街道まっしぐらだったわけです。
近代初の軍神・広瀬武夫「旅順港閉塞作戦」で劇的な戦死を遂げる
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子どもたちにキラキラネームを付けた真意とは!?
しかし、当時は文武両道ならぬ文理両道な人はそうそう多くありませんし、そのうえ軍にも携わっているとなるとほぼ皆無ですから、彼の感覚は相当特殊になっていたことは予想がつきますよね。
わかりやすい例を挙げると、二点ほどそういうところがあります。
まず一つは、子供や孫の命名です。
長男・於菟(おと)は中国の虎を意味する言葉、長女の茉莉は茉莉花(ジャスミン)から名付けられているのでまだマシというか元ネタがわかりやすいですが、この二人以降は皆西洋の名前に当て字をしたものなのです。
次女は杏奴(あんぬ、フランス語)、次男が不律(ふりつ=フリッツ、ドイツ語)、三男は類(るい、フランス語)といった具合。次男だけは夭折してしまいましたが、他の四人はいずれも大成しています。
あらためてまとめておきますと。
【森鴎外のキラキラネームな子供たち】
長男・於菟(おと)
長女・茉莉花(ジャスミン)
次女・杏奴(あんぬ)
次男・不律(ふりつ)
三男・類(るい)
一応ただの西洋かぶれだったわけではなく、「西洋に行っても発音しやすいように」という親心だったとか。鴎外の本名である「林太郎」がドイツではなかなか発音しづらく不評だったからというのもあるようです。
今で言うキラキラネームかと思いきや、ちゃんと理由があったんですね。
恐らく同様の理由で、孫にも「爵」(じゃく)という名前をつけています。ホントは冠が「木」なんですが、文字コードの事情によりこの字でご勘弁ください。
フランスの男性名「ジャック」のもじりだそうですが、たぶん当時は誰も判らなかったんじゃないですかね……。
乃木希典の殉死に衝撃を受け、わずか5日間で書き上げる
もう一つは、『興津弥五右衛門の遺書』という短編小説の執筆経緯です。
ドイツ留学中からの付き合いで、日露戦争では同輩?でもあった乃木希典が明治天皇に殉死したことに衝撃を受けて書いたものなのですが……いくら短編とはいえ、恐らくカケラも構想がなかったであろう話をたった五日間で書き上げたあたり、衝撃の大きさと鴎外の文筆力が伺えます。
前半は興津家という家の由来を書いているのですが、意外にも戦国時代から始まっており、歴史ファンなら「おっ」と思うかもしれませんね。主人公は文禄四年(1595年)生まれで、これは蒲生氏郷や豊臣秀次が亡くなった年です。
そしていろいろご恩のあった主君の十五回忌に、出遅れながら殉ずるという話なのですが、この”主君”が意外な人物だったりします。
多分ここであっさり明かしてしまうよりも、この話を読んでいただいたほうが面白いと思いますので、ご興味のある方は青空文庫へどうぞ。
戦国好きなら誰でも知ってる家ですよ。
細菌学を学んだ後に潔癖症?
当時、乃木の殉死については業界問わず批判する意見も多かった中、鴎外がこの作品を書いたことはとても意義のあることだったのではないでしょうか。一般人の多くは美談として受け止めていて、批判した新聞のほうが非難されていたようですし。
鴎外のような大文豪の気持ちを推し量るのも大それたことではありますけども、多分純粋な人だったんでしょうね。一つ大きな特徴を見つけると、多少のことでは評価を変えないというか。
細菌学を学んだ後は潔癖症になったといわれていますし、例の脚気に対する対応のまずさも自らの知識を信ずるがゆえのことだったのかもしれません。だからこそなかなか考えを変えられずにいたのではないでしょうか。
全てが本人の責任というわけではありませんし、当時鴎外が軍医としてどこまで方針に口を出せたかも疑問ですし。
完璧な人間はいない(というか完璧なのは神様とか仏様であって人間ではない)のですから、そこだけにツッコミ続けるのも野暮というものでしょうね。鴎外の場合関わった出来事や書いた作品の存在感が大きすぎて、余計目立ってしまうのかもしれません。
昨今は一つ二つの欠点をあげつらうことが多いですが、そんなせせこましい了見ではいたくないものですねえ。
あわせて読みたい
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
森鴎外/Wikipedia
『興津弥五左衛門の遺書』(青空文庫)