春日虎綱(高坂昌信)

歌川國芳の描いた春日虎綱(高坂昌信)/wikipediaより引用

武田・上杉家

春日虎綱(高坂昌信)の生涯|信玄の近習から対上杉の城代へ大出世

2025/05/06

天正6年(1578年)5月7日は春日虎綱の命日です。

高坂昌信の名でも知られる武田家の武将であり、彼には不思議な現象があります。

ネットで画像検索をかけると、イケメンイラストが大量にヒットするのです。

武田信玄を支えた名将という評価だけでなく、なぜ彼にはそんなイメージがあるのか。

いったい春日虎綱にはどんな功績があったのか?

歌川国芳による春日虎綱(高坂昌信)/wikipediaより引用

その生涯を振り返ってみましょう。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

 

その名は何か?

なぜ春日虎綱は、同時に高坂昌信という名前でも知られているのか。

歴史的に見て日本史の著名人は復数の姓名を持っているほうが普通であり、変化しないようになったのは近代以降のこと。

例えば、同じく武田家臣である真田家を見ても、以下の例が挙げられます。

◆武藤喜兵衛→真田昌幸

三男である彼は武藤家の養子となったものの、兄二人の死により真田家に戻った

◆真田幸隆→真田幸綱

研究の進展により修正された

真田幸綱(真田幸隆)/wikipediaより引用

大河ドラマ『真田丸』により、真田家のこうした状況はよく知られるようになったかもしれません。

一方、春日虎綱の場合はややこしい要素が重なっています。

一つずつ具体的に見てまいりましょう。

◆高坂か? 香坂か?

高坂なのか、香坂なのか。複数の表記があります。

知名度は高坂のほうが高いけれど、他ならぬ本人は「高坂」を使ったことがありません。

◆香坂に養子とされた時期が最長でも11年間なのに、なぜ有名なのか?

養子の時期が本人の活躍時期とも重なるから。

◆虎綱か、昌信か?

昌信は出家後の名乗りでした。

武田信玄、上杉謙信、斎藤道三のように、出家後の法名が有名となったため、現在も使用される例はよくあります。

◆弾正とは?

仮名として名乗っていた。

虎綱は他に「高坂弾正」という呼び方も有名ですが、様々な状況が重なり、復数の名前が混乱しながら伝えられてきたことがご理解いただけるでしょうか。

本稿では「春日虎綱」として進めますのでご了承ください。

 


武田晴信が目を留めた美童の源五郎

本題の春日虎綱に進む前に、もう一つ、2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で注目したい人物がいます。

平盛綱です。

史実において出自が不明な平盛綱は、ドラマでは主人公・北条義時の亡妻・八重が救った孤児とされていました。

我が子の北条泰時に甲斐甲斐しく仕える彼を、義時が引き立てて御家人にしたのです。

これは出自がわからないからこそ、できる設定。

なぜ、この平盛綱に注目したのか?と申しますと、春日虎綱も出自は不明瞭です。

虎綱は大永7年(1527年)、石和の百姓である春日大隈の子として生まれ、源五郎と名乗りました。

そして天文11年(1542年)に父が死去すると、源五郎は田畑のことで姉夫妻と訴訟となってしまいます。

訴え出た16歳の源五郎に、青年大名である武田晴信、のちの信玄は目を留めます。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用

「わが近習としてただちに仕えるがよい」

さすが名将・武田信玄!一目でその才を見抜いた――と言いたいところですが、実際はそうではないでしょう。

虎綱が見目麗しい美少年だったからとしか思えない。

実はそんな証拠も残されています。

 

信玄からの恋文

証拠とは、天文15年(1546年)に書かれたと推定される釈明の文であり、その中身に注目。

以下のように意訳しました。

一、確かに弥七郎を何度も口説こうとしたけど、腹が痛いって言っていつも相手にされてないんだってば。信じてよ!

一、弥七郎と共寝はないんだよ。これまでだってない! 絶対に弥七郎といやらしいことはしてないし、今日の夜もそうだよ。

一、なんかさ、そういうこと色々と噂されるとかえって話が広まって迷惑なんだよね。これがもし嘘なら、当国一、二、三大明神、富士、白山、殊には八幡大菩薩、諏訪上下大明神から天罰くだされるから!

当時、弥七郎という美少年にもアプローチをしていた晴信。

それを嫉妬され、虎綱相手に書いた釈明の文が今も残されているのです。

戦国ファンにとっては有名なラブレターですね。

日本の中世において男色は特段珍しいことでもありません。

神社仏閣に残された祈願を読むと、恋のお悩みは男性同士のものが一番多いとかで、当時は両性愛者が標準と見た方がよいかとも思えてきます。

ただ、これにも注釈が必要です。

両性愛が当然の環境となると、夜中に寝室で話し合っていただけでも関係があったとみなされかねず、かつそれが親愛の証として誇張されることもあります。

徳川家康と井伊直政はこうした例といえそうで、2017年の大河ドラマ『おんな城主 直虎』でも、そうした事情を反映した作劇になっていました。

ただし、著名な戦国大名でも武田信玄と伊達政宗は別。

伊達政宗/wikipediaより引用

ハッキリと恋文が残されているとなると、確定的です。

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むろん、両性愛が一般的であったからには、特異なこととするのもよろしくないと思います。

『信長の野望・天翔記』では、信玄と高坂昌信に相撲を取らせると、主従の親愛を反映させたセリフが表示されると話題になりましたが、春日虎綱が歴史に名を刻んだのは、武勇を残したことの方が大きいのです。

 

「高坂弾正」の伝説

もしも春日虎綱が寵愛を受けるだけの美少年だったなら、数年たてば歴史から消えていたことでしょう。

しかし、そうはなりません。

近習から使番十二人衆に取り立てられると、甘飾城、小諸城、海津城を預かる城代となったのです。

松代城址に残る海津城の碑

これらの城は対上杉においては守りの要であり、信玄の懐刀として睨みを利かせていました。

永禄3年(1560年)頃、牧野島城主の香坂安房守が上杉に内通し、処断されます。

このとき、あるいは弘治2年(1556年)に海津城代になった際、香坂氏を継いだとされ、【第五次川中島の戦い】の頃には「春日」に復姓。

前述の通り、この香坂を「高坂」と表記し、弾正という名乗りと組み合わせた「高坂弾正」が有名ですね。

しかし武田家には他にも「弾正」がおります。

「鑓弾正」こと保科正俊

「鬼弾正」こと真田幸綱

「退(にげ)弾正」こと高坂昌信

いずれも勇ましい名が付けられる中で、退(にげ)とは?

撤退戦の名手という意味であり、合戦において最も難しい局面が撤退戦とされます。それを巧みにこなすとなれば、かなりの名将だと認知されていたことが浮かびます。

対上杉を任された虎綱は、武田と上杉の名勝負である【川中島の戦い】においてもその名を記しています。

武田信玄と上杉謙信 photo by お城野郎(R.FUJISE)

伝説となり、戦国時代を彩るこの戦いに幾度も出てくる「高坂弾正」は、ロマンとともに人々の記憶に残された。

後の天下人たる徳川家康を苦しめた【三方ヶ原の戦い】でも「高坂弾正」の名はありました。

武田信玄の有名な合戦には、その名が何度も登場するのです。

 


武田家に生じた翳り

虎綱が信玄を支えた武田全盛期に危うい翳りが生じ始めたのは、永禄10年頃と考えられるでしょうか。

同年10月19日(1567年11月19日)、嫡男の武田義信が亡くなりました。かつては自害説が有力でしたが、現在では病死の可能性が指摘もされております。

いずれにせよ、想定外の後継者急死であり、家を傾ける要因となったことは確かなのです。

そして元亀4年(1573年)には武田信玄も死去。

家督は四男の武田勝頼が継ぎました。

武田勝頼/wikipediaより引用

信玄の認識ですら勝頼は後継者ではなく、あくまで中継ぎと考えられていた――そこに義信を失ってからの、武田家が不安定に陥る要因が含まれていたと考えられます。

春日虎綱は信玄時代と変わらず、海津城代として対上杉の守備を担っていました。

すると天正2年(1574年)に武田勝頼は、信玄すら落とせなかった高天神城の陥落に成功。

春日虎綱はこのとき、警戒心ゆえか、さして喜んでいなかったとされます。

天正3年(1575年)の【長篠の戦い】では、海津城を守っていて、参戦はしていません。

しかし、嫡男の昌澄が討死を遂げてしまいました。

虎綱は家の行く末を案じ、勝頼にしばしば諫言するも、取り上げられることはありませんでした。

一体なぜだったのか?

 

武田家の滅亡前夜に世を去る

春日虎綱の諫言が取り上げられないのは、勝頼一人の問題とも言えません。

信玄時代を活きた同輩たちが次々に世を去ってゆく中、虎綱は老臣の代表格。

彼のような老臣に対し、武田一門の武田信豊、穴山信君、そして勝頼譜代家臣たちは不満を感じていたとされます。

特に虎綱はしばしば長坂光堅釣閑斎と対立していたとも伝わる。

しかし天正6年(1578年)、虎綱が目を光らせていた越後の上杉謙信が急死します。

上杉謙信/wikipediaより引用

すると上杉家の家督の後継をめぐって、景勝と景虎が争う【御館の乱】が勃発。

果たして行く末はどうなるのか。

景勝と締結する【甲越同盟】に関わる書状に虎綱はしばしば登場します。

しかしその終結を見届けることはありませんでした。

天正6年5月7日(1578年6月12日)に虎綱は病没してしまうのです。

 


一族に訪れた非情な運命

春日虎綱の一族は、その後、非業の運命をたどります。

次男の信達が海津城代を継ぐも、天正10年(1582年)に武田家が滅亡。

森長可の支配を受け、程なくして起きた【本能寺の変】の後は森長可に反し、上杉景勝の支配下に入ります。

武田の滅亡後、信濃は【天正壬午の乱】という騒乱状態に陥りました。

この最中、信達は、真田昌幸や北条氏直と通じたとして、景勝に成敗されてしまいます。

【天正壬午の乱】は、真田昌幸のように器用に泳ぎ回れた者ばかりではなく、滅亡へ追い込まれてしまう者たちもいたのです。

真田昌幸/wikipediaより引用

そして森長可の弟・森忠政は執念深い人物でした。

慶長5年(1600年)、初代川中島藩主として信濃に入った忠政は、兄を妨害した高坂一族を探し出し、磔刑にしてしまったのです。

ただし、このしつこい追及を免れ、子孫を名乗る人々は残されています。

ゲームでも、武将隊でも、美男として実装される「高坂弾正」。

信玄の目に留まり武田家に仕え、あの上杉謙信に睨みを利かせる名将となるとは、なんと劇的な生き方でしょうか。

美丈夫で、知勇兼備で、難しい撤退戦をこなす、そんな絵になる武将が実在したのです。

春日虎綱こそ後世に語り継ぐにふさわしい人物といえましょう。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


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【参考文献】
『武田氏家臣団人名事典』(→amazon
高野賢彦『甲州・武田一族衰亡史』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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