混乱に乗じて所領を拡大し、瞬く間に関東の覇権を握った北条氏。
小田原城という日本屈指の堅城を構えて上杉や武田と戦う様は、まさにキングオブ戦国大名の一角であり、
・北条早雲
・北条氏綱
・北条氏康
という三代についての話となると、テンションの上がる戦国ファンも少なくないでしょう。
しかし、その後二代はどうか?
・北条氏政
・北条氏直
北条五代という目で見たとき、まるで戦後処理といった厳しい見方になってしまったりしませんか?
彼らが決して無能ではなかったことは、以下、北条氏政の記事を作成したときにも申し上げさせていただいており、
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北条氏政の生涯|氏康の嫡男は信玄・謙信と互角に戦える名将だったのか
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今回、注目したいのはその息子。

北条氏直/wikipediaより引用
天正19年(1591年)11月4日が命日となる、北条氏直の生涯を振り返ってみます。
北条氏直は今川家当主の予定だった!?
北条氏直は永禄5年(1562年)、北条家四代当主・北条氏政の息子として生まれました。
氏直には彼よりも年長の兄がおりましたが、その兄が早くに亡くなり、実質的な長男として育てられていくことになります。
母は氏政正室の黄梅院殿。
武田信玄の娘にあたる女性です。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用
つまり、氏直は北条直系の血を受け継ぐと同時に、武田にも深い縁を持った人物でした。
しかし、世は戦国。
北条氏や武田氏だけでなく、今川氏や上杉氏ひしめく関東甲相駿は、敵味方が絶えず入れ替わっていた抗争激しいエリアです。
今川氏・武田氏・北条氏の間に結ばれていた【甲相駿三国同盟】も、永禄11年(1568年)、武田信玄が駿河へ攻め込んだことで破綻しました。
こうしてまだ幼い氏直も、戦国の波に巻き込まれ、彼には「今川家当主の座」が用意されることになります。
えっ、今川家?
当主だった今川氏真は?
そう思うのが自然ですが、信玄の駿河侵攻によって氏真は北条氏に庇護される立場に転落し、当時まだ国王丸と名乗っていた氏直が、養子として今川家を継ぐことになったのです。
しかし、この話も程なくして消滅します。
元亀2年(1571年)、武田氏と北条氏が再び同盟を結び、さらに天正元年(1573年)に今川氏真が北条氏のもとを離れたため、自然消滅しました。
氏直が生まれてから、ここまでわずか10年余り。
関東戦国史がいかに複雑か、ご実感いただけるでしょう。
ただし、氏直が家督を継承するころには徐々に混沌とした関東地方の勢力図が整理されていき、織田信長や豊臣秀吉といった勢力が関東にも進出してくるようになりました。
家督継承で【北条―織田】ライン強化
天正4年(1576年)の末ごろに元服した北条氏直。
その翌年、梶原政景が守る小田城攻めで初陣を飾りました。
天正7年(1579年)には、またもや武田氏との同盟が瓦解し、以後は対武田の戦いに氏直も参加します。
母の実家を攻撃する――というのは一見辛い話ですが、親類縁者が絡み合う戦国の状況ですと、北条が特別なわけでもなく、氏直本人もさほどの感慨は抱いていなかったようです。
北条氏は、この武田攻めに際し、中央で力を伸ばしつつあった織田信長・徳川家康と連携して対応にあたりました。

織田信長/wikipediaより引用
彼らとの関係強化を目的として天正8年(1580年)に氏直が家督を継承。
第五代北条氏当主の座につきます。
もっとも、この当主交代は、先代北条氏政の現役引退を意味するものではなく、彼もまた「御隠居様」として大きな権力を有していました。
ちなみに、氏直の家督継承で、なぜ【北条―織田】の関係が強化されるのか?
というと、氏直が信長の娘を妻とすることで親類となり、事実上、服属の形をとることで合意していたと思われるからです。
こうして着々と武田攻略の準備を整えた織田信長。
天正10年(1582年)、いよいよ武田領内へ侵攻します。
総大将は、織田家を継いだ織田信忠です。
その脇を滝川一益などの織田家重臣が固めており、織田家としても、武田勝頼を倒すための本気の布陣です。
彼等の進軍に合わせて北条勢も武田領国へ攻め込むと、すでに全盛期の勢いを失っていた武田家はわずか一か月で滅亡してしまいました。
信長敗死 すぐさま武田領の奪い合いへ
思いのほか呆気なく終わった甲州征伐。
信長が旧武田領を家臣に分け与えて管理したことで、この地は織田領に組み込まれていく……はずでしたが、実際はそうはなりませんでした。
なぜなら天正10年(1582年)に大事件が勃発――。
そうです。
明智光秀による【本能寺の変】が起きたのです。

『真書太閤記 本能寺焼討之図』(渡辺延一作)/wikipediaより引用
同謀反で、信長のみならず信忠まで喪った織田家では、後継者を巡って、激しい内紛が繰り広げられます。
その間、関東甲信越エリアはどうなっていたか?
というと旧武田領は、まだまだ統治が行き届いておらず、同エリアを任されていた滝川一益・徳川家康と北条家の間に不穏な空気が流れます。
やがて氏直を大将とする北条軍が滝川軍を襲い【神流川の戦い】が勃発。
氏直はここで大勝利を収めると、敗走する滝川軍を追撃して上野まで侵攻していきました。
さらに氏直は、信濃にも進出して現地の国衆を服属させると、越後上杉氏との間にも一戦を構えます。
こうして信長に服属していたうっぷんを晴らすかのような大暴れをみせる氏直は、続いて甲斐の若神子という地において徳川家康とも対決したばかりか、真田昌幸ひきいる真田家とも和解したり瓦解したり。
北条・上杉・徳川・真田の間で【天正壬午の乱】と呼ばれる大規模な乱戦が繰り広げられます。
一連の合戦は長期化し、次第に北条氏にとって不利な戦況に落ち着いていきます。
そのため天正11年(1583年)、北条氏直は、家康の次女である督姫を妻に迎えるという条件で和睦。
以後、北条氏は羽柴秀吉と徳川家康の争いを注視していくことになりました。
秀吉と家康の代理戦争と化した
徳川との和睦が成立した天正11年(1583年)。
北条氏は、上野(群馬)と下野(栃木)地方の攻略に乗り出しました。
しかし、国衆の離反や根強い抵抗に妨害され、思うように侵攻作戦を展開することができません。
翌年には彼らを攻略するべく藤岡・沼尻にて対陣し、その後ろ盾になっていた佐竹氏を崩すためにも調略を進めました。
そうこうしているうちに越後の上杉景勝が、佐竹氏救援のため上野まで進軍してきます。

上杉景勝/wikipediaより引用
さすがに佐竹と上杉の両軍に挟まれては危ういと判断したか。
北条方は、北条氏照を介して佐竹氏と和解するなど、関東での争いもジリジリとしていた頃、中央では豊臣秀吉と徳川家康が本格的な合戦へと突入していきます。
いわゆる【小牧・長久手の戦い】と呼ばれる争いです。
明智光秀を倒して信長敗死の仇討ちを取り、清州会議を経てから、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を斃した秀吉。
織田政権内でのトップに躍り出た秀吉は、その地位を盤石なものとするため、信長の二男・織田信雄と、さらに実力では圧倒的だった徳川家とも対峙することになったのです。
そこで北条氏はどう関わったか?
家康と同盟関係にあった北条は、徳川へ援軍を送ったりはしておりません。
というのも秀吉が佐竹氏を支援しており、関東の戦いはさながら秀吉と家康の代理戦争と化していたのです。
佐竹(秀吉)
vs
北条(徳川)
この時期の北条は、一般的にあまり目立った動きはしてないかもしれませんが、もちろん黙ってジーッとしてはおりません。
激化する沼田エリアの争奪戦
北条氏は同年中に再び上野へと侵攻。
敵対していた由良氏や長尾氏を打倒して降伏に追い込むと、この地で彼らに抵抗する勢力は真田氏を残すのみとなりました。
天正壬午の乱で激しく争奪戦を繰り広げた【沼田エリア】の争奪戦ですね。
さらにこの時期には、反佐竹勢力である奥州の伊達政宗とも軍事的連携を図るなど、外交的にも戦況は以前より優位に運びつつありました。
そして、いよいよ家康から真田氏攻撃の要請が下ると、「待ってました!」と言わんばかりに沼田城へと突撃。
しかし真田昌幸率いる真田家の根強い抵抗によって城を落としきるまでには至りません。

真田昌幸/wikipediaより引用
一方、天正15年(1587年)には、下総佐倉の地を支配するなど、北条の関東制圧作戦は順調かに思えました。
関東覇者としての立場を固めていく北条氏直。
北条早雲に始まり、小田原へ進出した北条氏綱、関東の大部分を手中に治めた北条氏康、そのエリアを盤石なものとした北条氏政。
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五代にわたる北条の体制は揺るぎなく、それが秀吉という存在を見誤らせてしまったのかもしれません。
このころには秀吉は日本の大部分を制圧しており、ついには関白就任という快挙を成し遂げていたのです。
天下人としてこの上ない地位まで手に入れた秀吉。
いよいよ徳川もその軍門に降ってしまうのです。
これには、あくまで反秀吉勢力として抵抗を続けた北条にとって、あまりに大きな痛手でした。
なぜなら秀吉に従うカタチで家康から【惣無事令】が関東エリアに向けて出され、合戦を停止させられたのです。
「勝手に戦争すんなよ。そんなことしたら攻め滅ぼすからな」
応仁の乱(1467年)から数えて約120年。
関東では享徳の乱(1454年)から約130年。
戦乱の毎日を過ごしてきた関東武士にとっては青天の霹靂というほかありません。
秀吉に従って停戦するか。
あるいは敵対するか。
北条氏直は、究極の選択に迫られていくのです。
名胡桃城問題で交渉決裂
秀吉からの停戦令を受け取った氏直は、当初「明確に答えを出さない」というスタンスにしました。
具体的な軍事行動こそ起こさない。
しかし領国での軍備は推し進めていく。
どちらにも転べるような体制を構築していきます。
そのためにも、まず氏直は、小田原城をはじめとする領国内の城に対し、大規模な普請工事を実行しました。
工事を担当する人員が急ピッチかつ大量に動員したことが史料からも確認でき、氏直が慌てていた様子が垣間見えます。
まぁ、当たり前ですね。お家の存亡がかかった一大事であり、多少強引な手段を用いてでも防御力を増強する必要がありました。
日に日に強まっていく秀吉からの圧力。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
氏直は領内に「人改めの令」を発し、普段は兵士として動員されていない商人や職人までを徴兵対象としていたことが確認できます。
こうした数々の臨時措置は、たしかに一時的な防御力の増強にはつながっています。
一方で領民に過剰な負担を強いることにもなってしまいました。
果たして氏直は生き残りを賭けて決戦をしたいのか?
以上の行動をみていくと、まるで北条氏が初めから秀吉と戦う気マンマンであったかのような印象を受けがちですが、実際のところはそうではありません。
天正15年(1587年)ごろには、秀吉による「北条、倒しちゃおっかな~」というような風評が広がりながら、実際は取り止めとなっており、親戚である家康の斡旋で交渉が行われています。
突如、名胡桃城を攻撃してしまい
北条方は、服属の意思を表明。
礼として北条氏規を上洛させました。
秀吉もこの時点では北条氏の意向を受け入れようとしていたようで、北条領域周辺の境界線策定に着手し、領域を確定させようとしておりました。
こうなると北条方としても「いかに良い条件を引き出すか?」という現実路線に重きが置かれ、政治工作に腐心していた様子も確認できます。
が、その一方で内部に大きな問題を抱えておりました。
先代の北条氏政です。

北条氏政/wikipediaより引用
氏直の父であり「御隠居様」として大きな権力を有していた氏政は、秀吉への服従に強く反発しており、北条家中も一枚岩になり切れてはおりませんでした。
それでもかねてより懸念事項であった沼田領を3分の2ほど手に入れるという交渉がまとまり、この難局を乗り切れるかに思えました。
しかし、ここで氏直にとって手痛い事件が発生してしまいます。
なんと、沼田城主であった猪俣邦憲が、真田領の名胡桃城を攻略するという【名胡桃城事件】を引き起こしたのです。
名胡桃城とは、沼田城の西にある支城の一つで、北条に割譲されなかった3分の1の地域にありました。
百聞は一見にしかずですので、地図で確認しておきましょう。
黄色が北条方の城で、上から小川城、明徳寺城、沼田城
赤色が真田方の名胡桃城です
まるで楔を打ち込むように敵対勢力の城があるのですから、北条としても神経質になるのは無理はないでしょう。
むろん、そうした言い分は真田昌幸にとっても同様で、そもそも同エリアを実力行使で治めていたのは真田方でした。
沼田エリアは
・越後(北)
・信濃(西)
・関東(南)
を繋ぐ要衝だったので、北条も真田も、最重要視する拠点だったのです。
だからといっていったん収めた矛をふたたび振りかざした北条の対応を、秀吉が黙って見過ごすはずはありません。
「重大な違反」として北条方へ迫り、
・北条氏政の年内上洛
・事件首謀者の成敗
という2つの条件を提示しました。
これが果たされなければ、来春にも小田原を攻めるという「最後通牒」です。
むろん秀吉は本気でした。
諸大名に小田原攻めの準備を命じており、北条の対応次第ではすぐにでもGOサインを出す状況。北条家にとっては、まさに御家の存亡がかかった一大事です。
ところが、です。
こんな非常時に氏直は、上洛命令の引き延ばし工作に取り掛かってしまうのです。
もしも父の氏政を上洛させれば抑留される危険性があり、御家存続の危機を乗り越えても、「国替え」つまり領地の移動を命じられるのを恐れて動けずにいたのでした。
そして時間切れ――。
激怒した秀吉に一切の言い訳は通じず、天正18年(1590年)、ついに小田原の地で全面戦争の火ぶたが切って落とされるのです。
上杉謙信のみならず武田信玄の猛攻も跳ね返した小田原城。
当時の武田や上杉の兵数は3万とか4万のレベルであったでしょう。
秀吉の動員力は20万規模でした。
小田原は孤立無援となった
いよいよ開戦が目前に迫った北条領では?
家臣や他国衆を小田原城に入れ、同時に支城の守りも盤石にしていきました。
北条氏は「難攻不落」と称された小田原城を中心にとにかく守りを固め、持久戦の中に勝機を見出そうとした節がうかがえます。
見事に守り抜き、厭戦気分が漂えばしめたもの。
その後の交渉で有利な条件も引き出せる可能性はあります。
しかし、です。
孤立無援と化した北条軍に対し、助け舟を出すものはありません。
通常、城の籠城は、他勢力の後詰めがあってこそ効果を発揮するものです。
敵を取り囲んでいる間に、たとえば、今回の場合ですと、東北から伊達政宗が反豊臣として進軍してきたり、はたまた隣国・駿河の徳川家康が裏切れば、そのインパクトも相当大きなものとなったでしょう。
いくらでも妄想(北条にとってはわずかな希望)は広がります。

伊達政宗/wikipediaより引用
そしてその妄想は、妄想のままで終わりました。
羽柴秀吉を中心として徳川家康・前田利家・上杉景勝といった「戦国オールスター」たちの優位は火を見るよりも明らか。
小田原包囲網はわずか3か月程度で完成してしまい、北条軍は城内でひたすらジリ貧の籠城戦を強いられるようになるのです。
瞬く間に戦況が悪化していく様子を目の当たりにして、穏健派の氏直はひそかに秀吉との和睦を模索し始めました。
徳川家康や織田信雄によって開城を勧められた氏直は、ことを重く受け止めたことでしょう。
城内ではすでに「こんな戦、やってられるか!」と逃亡者が続出しており、重臣である松田憲秀の息子が敵方と内通するなど、戦の継続が困難なレベルに達してかけていたのです。
この小田原征伐で、本格的な戦闘がわずかしか行われなかったのも、北条方の方針がガタガタだったことも影響しているのでしょう。
秀吉方にしてみれば、無理に攻め込んで将兵の損耗をする必要はなかったのです。
結果的に、氏直は「自身の切腹による城兵の助命」を条件に、城を明け渡して降伏しました。
秀吉は「神妙な申し出だが、全員の助命はできない」として
・北条氏政
・北条氏照
・大道寺政繁
・松田憲秀
ら四名の処刑を実施しております。
一方で北条氏直は許され、降伏時の行動も称賛されました。
明け渡された城や領国には家康が入り、助命された氏直は高野山への追放が決まります。
ついに五代続いた戦国大名北条氏は滅びました。
初代の伊勢宗瑞(北条早雲)から始まり、まさに戦国の世を体現した勢力の滅亡は、一時代の終わりを象徴しているかのようです。
実は幕末まで残っていた
高野山に追放された氏直には、側近家臣ら30名が同行することになりました。
妻の督姫は小田原に入った家康のもとへとどめ置かれることとなり、山へは連れ添っていません。
天正19年(1591年)には家臣らや家康のとりなしもあって赦免運動が行われ、秀吉は氏直を許して1万石の所領を与えることを決定します。
彼は秀吉の命令で大坂へと移り住み、羽柴氏の家臣として再出発を図りました。
しかし、新たな門出の矢先、同年中に疱瘡を患ってしまった氏直は体調を崩してしまいます。
結局この病気は快復することなく、彼は30歳でその生涯を終えてしまうのです。
このタイミングでの病死は「お前だけのうのうと生き延びるのは許さん!」という北条遺臣らの怨念に感じられてならないのですが、さすがにオカルトですね。
なお、氏直には男子の後継ぎがいなかったため、秀吉に許された分の知行をだれが引き継ぐかが問題になりました。
最終的には従兄弟の北条氏盛(父は北条氏規・祖父が北条氏康)がこれを相続。
関ヶ原の戦いで活躍したこともあって狭山藩1万1千石を安堵されています。
結局この藩主は代々氏盛の子孫らが就任し、幕末まで北条の名前を残す結果となりました。
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【参考文献】
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学研パブリッシング)』(→amazon)
黒田基樹『戦国北条家一族事典(戎光祥出版)』(→amazon)
黒田基樹『戦国北条五代(星海社)』(→amazon)
『国史大辞典』







