混乱に乗じて所領を拡大し、瞬く間に関東の覇権を握った北条氏。
小田原城という日本屈指の堅城を構えて上杉や武田と戦う様は、まさにキングオブ戦国大名の一角であり、
という三代についての話となると、テンションの上がる戦国ファンも少なくないでしょう。
しかし、その後二代はどうか?
北条五代という目で見たとき、まるで戦後処理といった厳しい見方になってしまったりしませんか?
彼らが決して無能ではなかったことは、以下、北条氏政の記事を作成したときにも申し上げさせていただいており、
北条氏政が暗愚だから小田原は陥落した? 信玄や謙信と戦った名将の生涯53年
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今回、注目したいのはその息子。
天正19年(1591年)11月4日が命日となる、北条氏直の生涯を振り返ってみます。
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北条氏直は今川家当主の予定だった!?
北条氏直は永禄5年(1562年)、北条家四代当主・北条氏政の息子として生まれました。
氏直には彼よりも年長の兄がおりましたが、その兄が早くに亡くなり、実質的な長男として育てられていくことになります。
母は氏政正室の黄梅院殿。
武田信玄の娘にあたる女性です。
つまり、氏直は北条直系の血を受け継ぐと同時に、武田にも深い縁を持った人物でした。
しかし、世は戦国。
北条氏や武田氏だけでなく、今川氏や上杉氏ひしめく関東甲相駿は、敵味方が絶えず入れ替わっていた抗争激しいエリアです。
今川氏・武田氏・北条氏の間に結ばれていた【甲相駿三国同盟】も、永禄11年(1568年)、武田信玄が駿河へ攻め込んだことで破綻しました。
こうしてまだ幼い氏直も、戦国の波に巻き込まれ、彼には「今川家当主の座」が用意されることになります。
えっ、今川家?
当主だった今川氏真は?
そう思うのが自然ですが、信玄の駿河侵攻によって氏真は北条氏に庇護される立場に転落し、当時まだ国王丸と名乗っていた氏直が、養子として今川家を継ぐことになったのです。
しかし、この話も程なくして消滅します。
元亀2年(1571年)、武田氏と北条氏が再び同盟を結び、さらに天正元年(1573年)に今川氏真が北条氏のもとを離れたため、自然消滅しました。
氏直が生まれてから、ここまでわずか10年余り。
関東戦国史がいかに複雑か、ご実感いただけるでしょう。
ただし、氏直が家督を継承するころには徐々に混沌とした関東地方の勢力図が整理されていき、織田信長や豊臣秀吉といった勢力が関東にも進出してくるようになりました。
家督継承で【北条―織田】ライン強化
天正4年(1576年)の末ごろに元服した北条氏直。
その翌年、梶原政景が守る小田城攻めで初陣を飾りました。
天正7年(1579年)には、またもや武田氏との同盟が瓦解し、以後は対武田の戦いに氏直も参加します。
母の実家を攻撃する――というのは一見辛い話ですが、親類縁者が絡み合う戦国の状況ですと、北条が特別なわけでもなく、氏直本人もさほどの感慨は抱いていなかったようです。
北条氏は、この武田攻めに際し、中央で力を伸ばしつつあった織田信長・徳川家康と連携して対応にあたりました。
彼らとの関係強化を目的として天正8年(1580年)に氏直が家督を継承。
第五代北条氏当主の座につきます。
もっとも、この当主交代は、先代北条氏政の現役引退を意味するものではなく、彼もまた「御隠居様」として大きな権力を有していました。
ちなみに、氏直の家督継承で、なぜ【北条―織田】の関係が強化されるのか?
というと、氏直が信長の娘を妻とすることで親類となり、事実上、服属の形をとることで合意していたと思われるからです。
こうして着々と武田攻略の準備を整えた織田信長。
天正10年(1582年)、いよいよ武田領内へ侵攻します。
総大将は、織田家を継いだ織田信忠です。
その脇を滝川一益などの織田家重臣が固めており、織田家としても、武田勝頼を倒すための本気の布陣です。
彼等の進軍に合わせて北条勢も武田領国へ攻め込むと、すでに全盛期の勢いを失っていた武田家はわずか一か月で滅亡してしまいました。
信長敗死 すぐさま武田領の奪い合いへ
思いのほか呆気なく終わった甲州征伐。
信長が旧武田領を家臣に分け与えて管理したことで、この地は織田領に組み込まれていく……はずでしたが、実際はそうはなりませんでした。
なぜなら天正10年(1582年)に大事件が勃発――。
そうです。
同謀反で、信長のみならず信忠まで喪った織田家では、後継者を巡って、激しい内紛が繰り広げられます。
その間、関東甲信越エリアはどうなっていたか?
というと旧武田領は、まだまだ統治が行き届いておらず、同エリアを任されていた滝川一益・徳川家康と北条家の間に不穏な空気が流れます。
やがて氏直を大将とする北条軍が滝川軍を襲い【神流川の戦い】が勃発。
氏直はここで大勝利を収めると、敗走する滝川軍を追撃して上野まで侵攻していきました。
さらに氏直は、信濃にも進出して現地の国衆を服属させると、越後上杉氏との間にも一戦を構えます。
こうして信長に服属していたうっぷんを晴らすかのような大暴れをみせる氏直は、続いて甲斐の若神子という地において徳川家康とも対決したばかりか、真田昌幸ひきいる真田家とも和解したり瓦解したり。
北条・上杉・徳川・真田の間で【天正壬午の乱】と呼ばれる大規模な乱戦が繰り広げられます。
一連の合戦は長期化し、次第に北条氏にとって不利な戦況に落ち着いていきます。
そのため天正11年(1583年)、北条氏直は、家康の次女である督姫を妻に迎えるという条件で和睦。
以後、北条氏は羽柴秀吉と徳川家康の争いを注視していくことになりました。
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