殺伐とした荒涼の地では、実はたくましく活動を続ける芸術家たちも多数輩出しました。
その筆頭が【狩野派】です。
ご存知の通り、最も有名なのが狩野永徳で、その他に数多の絵師を世に送り出しています。
彼らの存在は槍と刀の世界にいかなる影響を与えたのか?
1559年11月5日は狩野派反映の土台を作った狩野元信の命日。
本稿では、狩野派の始まりからみていきたいと思います。
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狩野派の祖・正信 その師匠が宗湛
もともと日本の水墨画は、各地の禅寺にいた絵の得意な僧侶から始まりました。
かの雪舟も、禅修行をしながら絵の道を修めております。
そして室町時代には、禅宗を好む武士が一定数いたため、馴染みのある寺を通じて、武家に水墨画を描いていくケースが増えていきました。
墨の濃淡だけで独特の世界観を表現するという手法が、質実剛健がモットーの武士に気風が合ったのかもしれません。
特に足利将軍家は、そういった絵のうまい僧侶を御用絵師として召し抱え、彼らの生活を安定させています。
その一人が狩野派の祖・狩野正信の師匠である宗湛(そうたん)でした。
正信自身は僧侶ではありませんでしたが、幕府にとってそこはどうでもよかったらしく、彼も御用絵師に迎えて、さまざまな絵を描かせています。
彼の画風は写実的な水墨画といった感じでした。正信の子・狩野元信は彩色画もよく描き、大小様々な作品が残っています。
同じ狩野派でも少しずつ変化していくのです。
【狩野派ザックリ流れ】
宗湛
↓
狩野正信
↓
狩野元信
↓
狩野松栄
↓
狩野永徳
父・元信は息子・永徳のサポートに回り
元信の子・松栄(しょうえい)はやや柔らかい画風で、大ウケはしませんでした。
が、彼の息子が名実ともに爆発します。
そうです。狩野派で最も著名な狩野永徳ですね。
※以下は狩野永徳の生涯まとめ記事となります
信長の御用絵師・狩野永徳が命を懸けた天下一絵師への道 48年の生涯を振り返る
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そんな息子の才能に期待してなのか。松栄は自分で表に立つより、サポートにまわる生き方をしました。
余談ですが、狩野派の絵師は割と長生きした人が多いので、松栄もじっくり落ち着いて物を考える人だったのかもしれません。
松栄は、息子の永徳よりも長生きなぐらいですしね。
そして、いよいよ永徳の時代です。
俗名は「州信(くにのぶ)」といいますが、例によって永徳で統一させていただきます。
絵師の家に生まれ、説明は不要かと思うほどですが、永徳は幼い頃から絵を学んでおりました。
記録上、彼の名が初めて出てくるのは、父と共に十三代将軍・足利義輝へ挨拶したときのこと。
公家・山科言継(やましなことつぐ)の日記『言継卿記』の記述によります。
刀を握ったまま斃れる壮絶な最期~足利義輝13代将軍の生涯30年まとめ
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天文二十一年(1552年)、永徳は満九歳の少年でした。
この時代には「息子を連れて主君に目通りする」というのはよくある話ですけれども、「父親がお得意先に自分の子供を連れて行った」と考えると、何だか微笑ましくなってきますね。
残念ながら、義輝が永禄の変で斃れたため、義輝が永徳のパトロンとなることはありません。
洛中洛外図を謙信へfrom信長
義輝の亡くなった翌年。
永禄九年(1566年)に永徳は大徳寺聚光院客殿襖絵
『花鳥図』
『琴棋書画図』
を描いています。
両方とも現在は国宝に指定されたプライスレスな作品ですね。
ここは三好氏の菩提寺としても知られていますね。
他には、千利休のお墓もあります。
そして、この襖絵が織田信長の目に留まったのがキッカケで、永徳は絵の依頼を受けるようになります。
中でも有名なのが、天正二年(1574年)に信長から上杉謙信に贈られた
「洛中洛外図」屏風(重要文化財)
でしょう。
金色でド派手なことが目につきますが、実は二千人近い人物が描かれているという大作。
上杉謙信の上洛を促すため、義輝が生前発注していたものだったといわれています。
京都の様子を知らせて、謙信の義侠心を煽ろうとしたのでしょうね。
しかし、義輝が突如亡くなったため、完成したこの屏風はずっと永徳の手元で眠っていました。
絵の完成は【永禄の変】から数カ月後ですので、永徳としては義輝への供養として描き続けていたのかもしれません……というのは、ちょっと美化しすぎですかね。
ただ単に、「上様のことは残念だったが、こんなに頑張って描いたんだし、いい買い手を見つけよう」と思い直しただけかもしれませんし。
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