狩野派

文化・芸術

狩野派|信長や秀吉たち戦国時代を彩った芸術家たちの作品とは?

2024/11/04

戦ばかりだと思われがちな戦国時代。

殺伐とした荒涼の地では、実はたくましく活動を続ける芸術家たちも多数輩出しました。

その筆頭が【狩野派】です。

ご存知の通り、最も有名なのが狩野永徳で、その他に数多の絵師を世に送り出しています。

彼らの存在は槍と刀の世界にいかなる影響を与えたのか?

1559年11月5日は狩野派反映の土台を作った狩野元信の命日。

本稿では、狩野派の始まりからみていきたいと思います。

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狩野派の祖・正信 その師匠が宗湛

もともと日本の水墨画は、各地の禅寺にいた絵の得意な僧侶から始まりました。

かの雪舟も、禅修行をしながら絵の道を修めております。

そして室町時代には、禅宗を好む武士が一定数いたため、馴染みのある寺を通じて、武家に水墨画を描いていくケースが増えていきました。

墨の濃淡だけで独特の世界観を表現するという手法が、質実剛健がモットーの武士に気風が合ったのかもしれません。

特に足利将軍家は、そういった絵のうまい僧侶を御用絵師として召し抱え、彼らの生活を安定させています。

その一人が狩野派の祖・狩野正信の師匠である宗湛(そうたん)でした。

狩野正信『周茂叔愛蓮図』/wikipediaより引用

正信自身は僧侶ではありませんでしたが、幕府にとってそこはどうでもよかったらしく、彼も御用絵師に迎えて、さまざまな絵を描かせています。

彼の画風は写実的な水墨画といった感じでした。正信の子・狩野元信は彩色画もよく描き、大小様々な作品が残っています。

同じ狩野派でも少しずつ変化していくのです。

【狩野派ザックリ流れ】

宗湛

狩野正信

狩野元信

狩野松栄

狩野永徳

 


父・元信は息子・永徳のサポートに回り

元信の子・松栄(しょうえい)はやや柔らかい画風で、大ウケはしませんでした。

が、彼の息子が名実ともに爆発します。

そうです。狩野派で最も著名な狩野永徳ですね。

※以下は狩野永徳の生涯まとめ記事となります

狩野永徳
狩野永徳の生涯|唐獅子図屏風を手がけた信長の御用絵師が“天下一”となるまで

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そんな息子の才能に期待してなのか。松栄は自分で表に立つより、サポートにまわる生き方をしました。

余談ですが、狩野派の絵師は割と長生きした人が多いので、松栄もじっくり落ち着いて物を考える人だったのかもしれません。

松栄は、息子の永徳よりも長生きなぐらいですしね。

そして、いよいよ永徳の時代です。

俗名は「州信(くにのぶ)」といいますが、例によって永徳で統一させていただきます。

絵師の家に生まれ、説明は不要かと思うほどですが、永徳は幼い頃から絵を学んでおりました。

記録上、彼の名が初めて出てくるのは、父と共に十三代将軍・足利義輝へ挨拶したときのこと。

足利義輝/wikipediaより引用

公家・山科言継(やましなことつぐ)の日記『言継卿記』の記述によります。

足利義輝(室町幕府13代将軍)の肖像画
刀を握ったまま敵勢に斃された剣豪将軍・足利義輝|室町幕府13代の壮絶な生涯

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天文二十一年(1552年)、永徳は満九歳の少年でした。

この時代には「息子を連れて主君に目通りする」というのはよくある話ですけれども、「父親がお得意先に自分の子供を連れて行った」と考えると、何だか微笑ましくなってきますね。

残念ながら、義輝が永禄の変で斃れたため、義輝が永徳のパトロンとなることはありません。

 

洛中洛外図を謙信へfrom信長

義輝の亡くなった翌年。

永禄九年(1566年)に永徳は大徳寺聚光院客殿襖絵

『花鳥図』
『琴棋書画図』

を描いています。

両方とも現在は国宝に指定されたプライスレスな作品ですね。

花鳥図/wikipediaより引用

ここは三好氏の菩提寺としても知られていますね。

他には、千利休のお墓もあります。

そして、この襖絵が織田信長の目に留まったのがキッカケで、永徳は絵の依頼を受けるようになります。

中でも有名なのが、天正二年(1574年)に信長から上杉謙信に贈られた

「洛中洛外図」屏風(重要文化財)

でしょう。

洛中洛外図右/wikipediaより引用

金色でド派手なことが目につきますが、実は二千人近い人物が描かれているという大作。

上杉謙信の上洛を促すため、義輝が生前発注していたものだったといわれています。

京都の様子を知らせて、謙信の義侠心を煽ろうとしたのでしょうね。

しかし、義輝が突如亡くなったため、完成したこの屏風はずっと永徳の手元で眠っていました。

絵の完成は【永禄の変】から数カ月後ですので、永徳としては義輝への供養として描き続けていたのかもしれません……というのは、ちょっと美化しすぎですかね。

ただ単に、「上様のことは残念だったが、こんなに頑張って描いたんだし、いい買い手を見つけよう」と思い直しただけかもしれませんし。

 

あの信長像も狩野一派が描いていた

信長がどんな経緯でこの絵のことを知ったのかは判然としません。

が、義輝と同じ目的で謙信へ贈りました。

人情に厚いところもある信長ですから、亡き将軍の願いを叶えるという意味もあったのかもしれません。

この頃の信長は浅井長政・朝倉義景の両氏を片付けたばかりで、とても謙信となんてドンパチできる状態ではありません。

そんな実利的な目的が大半だったんでしょうけど、まぁ、そんな想像をするのも歴史の楽しみのひとつということで。

この頃には、永徳はすっかり信長に気に入られていたようです。

時系列が前後しますが、永徳の弟・狩野宗秀が信長の一周忌に合わせて肖像画を描いていますので、永徳だけでなく一門を引き立てていたと思われます。

この肖像画は、信長の話をするとき必ずといっていいほど出てくるこの絵です。

織田信長/wikipediaより引用

絵画の名称としては「紙本著色織田信長像」となっていて、愛知県豊田市の長興寺に所蔵されています。

信長が新たな本拠として築いた安土城にも、永徳が障壁画を多く描いていました。

『信長公記』には、花鳥・名所・風俗を描いた華麗なものだった……と記されています。

しかし、本能寺の変の後の火事で、安土城の本丸ごと焼けてしまいました。

永徳もかなり気合を入れた仕事だったでしょうから、ガックリ来たでしょうね。

永徳自身は秀吉の目に留まり、大坂城や聚楽第など、この時期の代表的な建築物に多く障壁画を描いています。

……が、天正十八年(1590年)9月、東福寺法堂の天井画を手がけていた時期に病気になり、そのまま亡くなってしまいました。

短期間に大規模な絵を多く描きすぎたのが死因では?なんて言われておりまして。

秀長といい、秀吉の周りって過労死っぽい人多くないですか……?(´・ω・`)

まぁ、秀吉が鞭打ったわけではないでしょうけれども。

 


東の「江戸狩野」と西の「京狩野」

上記の通り、永徳の作品は障壁画が多かったため、建築物と共に失われたものが多いのが残念なところです。

それだけに、永徳の真作とされるものは知名度の割に少なく、宮内庁蔵の「唐獅子図屏風」など、ごく数点しかありません。

「永徳の作品ではないか」

そんな風に目されているのも少しはありますが、その辺は今後の研究に期待ということで。

いずれにせよ、

・織田信長
・豊臣秀吉

の天下人2名に認められたのは大きいものでした。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

彼の息子や一門である狩野派は、以降、画壇の中核に進出。

江戸幕府の御用絵師となり、代々世襲されていくのです。

さらに子孫とその弟子たちが増え続け、気がつけば16もの系統に分化しております。

特に元禄年間(1688~1704年)以降、江戸の画家の大部分は狩野派か、その門下で学んだことがある者だったとか。

彼らの活躍は江戸に留まりません。

やがて地方でも注目を浴び始め、あっちこっちの藩主が御用絵師として召し抱えるようになるのです。

また、わずかながらに京都に残った人々も活動を続けています。

上方と江戸では文化の違いがあるというのは有名な話ですが、好まれる画風も同様でした。

そのため、

・江戸に移り住んだ絵師の画風を「江戸狩野」

・京都で活動を続けた絵師の画風を「京狩野」

と呼んだりもします。

しかし、江戸でも世の中が武よりも文を重んじるようになると、江戸の画風もそれに従って穏やかなものになっていきました。

世の中にウケるものを描かないと売れないですしね。

幕府としても、人々を温和な方向に導いたほうが統治しやすくなりますし。

ついでに、永楽と同時期に京都で活躍した他の画家も少しだけご紹介します。

最近は比較するような形の展示会が行われることもありますし、知っているとより深く味わえるかと。

 

長谷川等伯(1539~1610年)

元は能登七尾城主・畠山氏の家臣出身でした。

染色業者だった長谷川宗清(道浄)の養子となり、養父や雪舟の弟子・等春などから画を学んだと考えられています。

元亀二年(1571年)頃に上洛し、狩野派など先達の絵を学び、徐々に画力と名声を獲得。

本法寺の日通上人や千利休との交際を通じて、水墨画にも傾倒していきます。

楓図/wikipediaより引用

天正十年(1582年)大徳寺総見院の水墨障壁画がこの時期の名作とされています。

が、残念ながら現存していません。

秀吉が信長の菩提を弔うために建てたお寺なので、この時点で等伯は天下人同然の人に知られる存在になっていたといえます。

一説には、天正十五年(1587年)に、狩野永徳と共に聚楽第の障壁画を手がけたともいわれています。

もしもこれが本当であれば、史上稀に見る巨匠の共演なのですが……聚楽第自体が破却されてしまって……嗚呼、もったいない。

等伯も永徳に負けず劣らず精力的に活動していました。割と頑丈な人だったようで70代まで現役で描き続けています。

現存している作品は80点前後で、その中には稲葉一鉄や千利休などの著名人を描いたものも含まれます。

また、日本初の画論「等伯画説」は、等伯の絵画に関する見解などを、日通上人が書きとめたものだということですから、芸術家には珍しく弁も立つタイプだったようです。

戦国絵師・長谷川等伯が描いた千利休/wikipediaより引用

関ヶ原の戦いが終わってしばらくした慶長十五年(1610年)、徳川家康の招きに応じて息子と共に江戸へ下りました。

が、途中で病気になったため、江戸到着後、すぐに亡くなっています。

江戸まで生を保ったあたり、等伯のド根性っぷりがうかがえます。

息子や弟子たちは長谷川派を形成しましたが、等伯の死後は次第に衰退しています。

あまりにも大きくなり過ぎた狩野派。

これに対抗するのが難しかったのかもしれません。

 


海北友松(かいほうゆうしょう 1533~1615年)

実家は浅井氏の家臣でした。

友松はお寺に入っていたので浅井氏滅亡の際も無事に生き延びました。

本人としてはそれを恥と感じていたようで、四十代になってから還俗して武道に励んでいます。

海北友松の描かれた『海北友松夫妻図』/wikipediaより引用

かなり情に厚いというかガッツのある人だったらしく、本能寺の変が起きた後にスゴイ逸話を持っています。

【山崎の戦い】で明智軍が敗れた後、友人だった斎藤利三が磔刑にされたと聞いて、なんと刑場に遺体を取りに行き、葬ってやったというのです。まあ、この頃はまだ画家ではなかったのですが……。

絵の師匠は狩野永徳ともいわれていますが、詳細は不明。

東福寺他、禅宗寺院に伝わる宋元画から直接学んだともいわれています。

その後は豊臣秀吉に認められ、慶長三年(1598年)までには画家として大成していたようです。

最晩年には宮廷にも出入りし、かなりの名声を得ていました。

しかし、友松自身は名声欲がなかったようで、弟子も多くは取っていません。

そのため「海北派」というものは作られず、作風を継ぐ人も出てきませんでした。

まさに「ナンバー1よりオンリー1」な感じです。

仏門に入っていただけに、絵の向上心以外の欲が薄かったのかもしれませんね。

 

雲谷等顔(うんこく とうがん 1547~1618年)

肥前国能古美(のごみ・佐賀県鹿島市)の城主・原直家の次男生まれとされています。

……といっても、家系図には名前が載っていないそうですので、庶子か傍系の出身ではないかとも考えられています。

主家が滅んだ後、京に出て狩野派に学んだとされ、師匠はハッキリしません。

時代的には、永徳かその父・松栄のどちらかでしょう。

その後、広島城主・毛利輝元に召しかかえられ、画才を認められてお抱え絵師へと出世。

文禄二年(1593年)には、毛利家に伝わる雪舟作「山水長巻」を主命により模写し、その腕を認められて雪舟の雲谷庵の復興を許されました。

それから「雪舟三代」とか「雲谷等顔」を名乗るようになりました。

萩だけでなく、津山城や京都、江戸の毛利家屋敷なんかにも行って作品を残しているので、この人も割と健康的だったようですね。

等顔は兄の三人の遺児と実子四人を画家として育て、それぞれが独立したため、雲谷派には7つの系統が残りました。

雲谷派は全体的に保守的な画風ですが、それによって桃山時代の傾向を持ち続けたという面もあります。

山水図/wikipediaより引用

文化史の類は好きな人にはドハマリする一方、例えば受験生の方にはどうにも地味な印象が拭えず、敬遠されがちな分野です。

が、作者の人生や世相を合わせて見ていくと、覚えやすくなるかと思います。

贅沢をいえば、実際に見に行くのが一番ですのでチャンスがあれば是非に!

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【参考】
国史大辞典「狩野永徳」「狩野派」「長谷川等伯」「長谷川派」「海北友松」「雲谷等顔」

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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