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【狩野派】
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あの信長像も狩野一派が描いていた
信長がどんな経緯でこの絵のことを知ったのかは判然としません。
が、義輝と同じ目的で謙信へ贈りました。
人情に厚いところもある信長ですから、亡き将軍の願いを叶えるという意味もあったのかもしれません。
この頃の信長は浅井長政・朝倉義景の両氏を片付けたばかりで、とても謙信となんてドンパチできる状態ではありません。
そんな実利的な目的が大半だったんでしょうけど、まぁ、そんな想像をするのも歴史の楽しみのひとつということで。
この頃には、永徳はすっかり信長に気に入られていたようです。
時系列が前後しますが、永徳の弟・狩野宗秀が信長の一周忌に合わせて肖像画を描いていますので、永徳だけでなく一門を引き立てていたと思われます。
この肖像画は、信長の話をするとき必ずといっていいほど出てくるこの絵です。
絵画の名称としては「紙本著色織田信長像」となっていて、愛知県豊田市の長興寺に所蔵されています。
信長が新たな本拠として築いた安土城にも、永徳が障壁画を多く描いていました。
『信長公記』には、花鳥・名所・風俗を描いた華麗なものだった……と記されています。
しかし、本能寺の変の後の火事で、安土城の本丸ごと焼けてしまいました。
永徳もかなり気合を入れた仕事だったでしょうから、ガックリ来たでしょうね。
永徳自身は秀吉の目に留まり、大坂城や聚楽第など、この時期の代表的な建築物に多く障壁画を描いています。
……が、天正十八年(1590年)9月、東福寺法堂の天井画を手がけていた時期に病気になり、そのまま亡くなってしまいました。
短期間に大規模な絵を多く描きすぎたのが死因では?なんて言われておりまして。
秀長といい、秀吉の周りって過労死っぽい人多くないですか……?(´・ω・`)
まぁ、秀吉が鞭打ったわけではないでしょうけれども。
東の「江戸狩野」と西の「京狩野」
上記の通り、永徳の作品は障壁画が多かったため、建築物と共に失われたものが多いのが残念なところです。
それだけに、永徳の真作とされるものは知名度の割に少なく、宮内庁蔵の「唐獅子図屏風」など、ごく数点しかありません。
「永徳の作品ではないか」
そんな風に目されているのも少しはありますが、その辺は今後の研究に期待ということで。
いずれにせよ、
・織田信長
・豊臣秀吉
の天下人2名に認められたのは大きいものでした。
彼の息子や一門である狩野派は、以降、画壇の中核に進出。
江戸幕府の御用絵師となり、代々世襲されていくのです。
さらに子孫とその弟子たちが増え続け、気がつけば16もの系統に分化しております。
特に元禄年間(1688~1704年)以降、江戸の画家の大部分は狩野派か、その門下で学んだことがある者だったとか。
彼らの活躍は江戸に留まりません。
やがて地方でも注目を浴び始め、あっちこっちの藩主が御用絵師として召し抱えるようになるのです。
また、わずかながらに京都に残った人々も活動を続けています。
上方と江戸では文化の違いがあるというのは有名な話ですが、好まれる画風も同様でした。
そのため、
・江戸に移り住んだ絵師の画風を「江戸狩野」
・京都で活動を続けた絵師の画風を「京狩野」
と呼んだりもします。
しかし、江戸でも世の中が武よりも文を重んじるようになると、江戸の画風もそれに従って穏やかなものになっていきました。
世の中にウケるものを描かないと売れないですしね。
幕府としても、人々を温和な方向に導いたほうが統治しやすくなりますし。
ついでに、永楽と同時期に京都で活躍した他の画家も少しだけご紹介します。
最近は比較するような形の展示会が行われることもありますし、知っているとより深く味わえるかと。
長谷川等伯(1539~1610年)
元は能登七尾城主・畠山氏の家臣出身でした。
染色業者だった長谷川宗清(道浄)の養子となり、養父や雪舟の弟子・等春などから画を学んだと考えられています。
元亀二年(1571年)頃に上洛し、狩野派など先達の絵を学び、徐々に画力と名声を獲得。
本法寺の日通上人や千利休との交際を通じて、水墨画にも傾倒していきます。
天正十年(1582年)大徳寺総見院の水墨障壁画がこの時期の名作とされています。
が、残念ながら現存していません。
秀吉が信長の菩提を弔うために建てたお寺なので、この時点で等伯は天下人同然の人に知られる存在になっていたといえます。
一説には、天正十五年(1587年)に、狩野永徳と共に聚楽第の障壁画を手がけたともいわれています。
もしもこれが本当であれば、史上稀に見る巨匠の共演なのですが……聚楽第自体が破却されてしまって……嗚呼、もったいない。
等伯も永徳に負けず劣らず精力的に活動していました。割と頑丈な人だったようで70代まで現役で描き続けています。
現存している作品は80点前後で、その中には稲葉一鉄や千利休などの著名人を描いたものも含まれます。
また、日本初の画論「等伯画説」は、等伯の絵画に関する見解などを、日通上人が書きとめたものだということですから、芸術家には珍しく弁も立つタイプだったようです。
関ヶ原の戦いが終わってしばらくした慶長十五年(1610年)、徳川家康の招きに応じて息子と共に江戸へ下りました。
が、途中で病気になったため、江戸到着後、すぐに亡くなっています。
江戸まで生を保ったあたり、等伯のド根性っぷりがうかがえます。
息子や弟子たちは長谷川派を形成しましたが、等伯の死後は次第に衰退しています。
あまりにも大きくなり過ぎた狩野派。
これに対抗するのが難しかったのかもしれません。
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