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【狩野派】
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海北友松(かいほうゆうしょう 1533~1615年)
実家は浅井氏の家臣でした。
友松はお寺に入っていたので浅井氏滅亡の際も無事に生き延びました。
本人としてはそれを恥と感じていたようで、四十代になってから還俗して武道に励んでいます。
かなり情に厚いというかガッツのある人だったらしく、本能寺の変が起きた後にスゴイ逸話を持っています。
【山崎の戦い】で明智軍が敗れた後、友人だった斎藤利三が磔刑にされたと聞いて、なんと刑場に遺体を取りに行き、葬ってやったというのです。まあ、この頃はまだ画家ではなかったのですが……。
絵の師匠は狩野永徳ともいわれていますが、詳細は不明。
東福寺他、禅宗寺院に伝わる宋元画から直接学んだともいわれています。
その後は豊臣秀吉に認められ、慶長三年(1598年)までには画家として大成していたようです。
最晩年には宮廷にも出入りし、かなりの名声を得ていました。
しかし、友松自身は名声欲がなかったようで、弟子も多くは取っていません。
そのため「海北派」というものは作られず、作風を継ぐ人も出てきませんでした。
まさに「ナンバー1よりオンリー1」な感じです。
仏門に入っていただけに、絵の向上心以外の欲が薄かったのかもしれませんね。
雲谷等顔(うんこく とうがん 1547~1618年)
肥前国能古美(のごみ・佐賀県鹿島市)の城主・原直家の次男生まれとされています。
……といっても、家系図には名前が載っていないそうですので、庶子か傍系の出身ではないかとも考えられています。
主家が滅んだ後、京に出て狩野派に学んだとされ、師匠はハッキリしません。
時代的には、永徳かその父・松栄のどちらかでしょう。
その後、広島城主・毛利輝元に召しかかえられ、画才を認められてお抱え絵師へと出世。
文禄二年(1593年)には、毛利家に伝わる雪舟作「山水長巻」を主命により模写し、その腕を認められて雪舟の雲谷庵の復興を許されました。
それから「雪舟三代」とか「雲谷等顔」を名乗るようになりました。
萩だけでなく、津山城や京都、江戸の毛利家屋敷なんかにも行って作品を残しているので、この人も割と健康的だったようですね。
等顔は兄の三人の遺児と実子四人を画家として育て、それぞれが独立したため、雲谷派には7つの系統が残りました。
雲谷派は全体的に保守的な画風ですが、それによって桃山時代の傾向を持ち続けたという面もあります。
★
文化史の類は好きな人にはドハマリする一方、例えば受験生の方にはどうにも地味な印象が拭えず、敬遠されがちな分野です。
が、作者の人生や世相を合わせて見ていくと、覚えやすくなるかと思います。
贅沢をいえば、実際に見に行くのが一番ですのでチャンスがあれば是非に!
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「狩野永徳」「狩野派」「長谷川等伯」「長谷川派」「海北友松」「雲谷等顔」