大河ドラマ『豊臣兄弟』で注目される秀吉と秀長の父親――。
史実では一体どんな人だったのか?
というと、これが何とも複雑な状況でして。
「木下弥右衛門でしょ?」とか「竹阿弥だよね?」という曖昧な認識になりがちですが、それも仕方のない話で「◯◯が父親です」という確かな史料が残されていないのです。
そこで注目されるのが以下の三冊。
『太閤素生記』
『太閤記』
『祖父物語』
いずれも江戸時代に成立した書物(書類)ながら、豊臣兄弟の父親を辿るための貴重な記録となっています。
ではこの三冊には、何がどう記されているのか?

豊臣秀長/wikipediaより引用
諸説ある父親像を整理しておきましょう。
『太閤素生記』兄弟の父は異なる
豊臣兄弟の父親で最も有名な説は『太閤素生記』に記された以下の内容でしょう。
◆姉とも・秀吉の父親が木下弥右衛門
◆秀長・妹あさひの父親が筑阿弥(竹阿弥)
同書によると、木下弥右衛門は、尾張の中中村在住で織田信秀に仕えた鉄砲足軽でした。

『絵本太閤記』に弥助昌吉として登場する木下弥右衛門/wikipediaより引用
しかし戦場で負傷して百姓となり、天文十二年(1543年)、秀吉8才のときに死亡。
その後、母なか(天瑞院殿・大政所)が筑阿弥と再婚して、秀長とあさひが産まれました。
筑阿弥は信秀に仕えた同朋衆とされます。
いかがでしょう?
わざわざ「異なる父親」の経緯が記されていて、いかにも信憑性ありそうですよね。
しかし、尾張中中村は織田信秀の居城(当時は勝幡城)から遠く、それより近距離の清須城・織田達勝(みちかつ)の可能性が指摘されます(地図参照)。
※黄色が中村・赤色が清須城・紫色が勝幡城
また、出典の『太閤素生記』も延宝四年(1676年)以前の成立で決定的な史料とは言えず、同時期に記された他の出典とも記述が異なっているのが事態をややこしくさせています。
他の出典とは『太閤記』と『祖父物語』ですので、次にこちらを見てみましょう。
『太閤記』『祖父物語』父は筑阿弥
小瀬甫庵『太閤記』の父親像はシンプルです。
「尾張中村に住む筑阿弥が父親である」
寛永二年(1625年)に成立した同書によると、筑阿弥は織田達勝(みちかつ)に仕えるも家は貧しく、天文十五年(1545年)、秀吉は10才のときに家を出たことになっています。

若き頃の秀吉を描いた月岡芳年『月百姿 稲葉山の月』/wikipediaより引用
また寛永十九年(1642年)に成立した『祖父物語』も「父は竹阿弥で、織田信長の同朋衆であった」と記します。
『祖父物語』は、尾張朝日村の柿屋喜左衛門が、祖父の見聞談を書き留めた聞書(ききがき・メモ)であり、生々しい情報が残されたものですが、確実な史料とも言いきれない。
三冊をシンプルにまとめるとこうなります。
『太閤素生記』の異父説→木下弥右衛門と筑阿弥
『太閤記』『祖父物語』の同父説→筑阿弥
いったい何が正しいのか?
ドラマの時代考証である黒田基樹氏の著書『羽柴秀吉とその一族(→amazon)』によりますと、
・父親は筑阿弥(木下弥右衛門は同一人物)
・清須の織田達勝に仕えた
・天文十二年に死去
と考えるのが最も妥当とのことです。
同じくドラマ時代考証・柴裕之氏も『羽柴秀長 秀吉の天下を支えた弟(→amazon)』の中で、「木下弥右衛門と筑阿弥が同一人物である可能性」を指摘されています。
ただし、わずかな周辺情報から推測された話であり、確定されたわけではありませんのでご注意ください。
次に荒唐無稽とされる「皇胤説」と「日輪受胎説」、他の諸説も見ておきましょう。
『天正記』の皇胤説
皇室の落胤であるという「皇胤説」は、大村由己が記した『天正記』の『任官之記』に記されています。
『任官之記』は天正十三年(1585年)に成立――つまり豊臣秀吉が生きている間に記されたもので、それなら確実な情報だろう!とはなりません。
関白任官を正当化するための創作だろうと指摘されるのです。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
同書では、秀吉の母なか(天瑞院殿・大政所)が、罪を犯して尾張に流された萩中納言の娘であり、後に宮中に仕えて身ごもり、尾張で秀吉を産んだとされています。
宮中での出産を避けるため、内裏を出るのは理解できます。
しかし、わざわざ尾張まで下ったというのは無理がありすぎる。
まぁ最初から荒唐無稽な話なんですよね……。
それでも当時の政治に影響した可能性が考えられ、一笑に付すこともできないのが「皇胤説」。
なんせ当時の正親町天皇にしてみれば不快極まりなかったことでしょう。

正親町天皇/wikipediaより引用
というのも、秀吉誕生当時の帝・後奈良天皇は、正親町天皇の父だったのです。
つまり秀吉とは異母兄弟となる。
正親町天皇は『任官之記』成立の翌年に譲位していますので、皇胤説が耳に入っていた可能性は高いでしょう。
その息子である誠仁親王(さねひとしんのう)は譲位間近に急死しますが、側室が秀吉と密通したため自害したという噂まであり、憤死の可能性だって考えられます。
結果、正親町天皇の次は、誠仁親王の子である後陽成天皇となりました。
後陽成天皇は、秀吉の姉・ともが出家した際、「瑞龍寺」という寺号を与えています。
この寺は日蓮宗唯一の門跡寺院で、公家や皇族の女性が代々住職を務めることになり、ともや秀次に好意的だった可能性を感じさせます。
秀吉に対しては不明ですが、本気で「叔父である」とは考えなかったことでしょう。
その他多くの諸説
「日輪受胎説」は『太閤記』などに記載されており、皇胤説よりもさらに非現実的な内容で、後付けの説と考えられています。
秀吉が比叡山の神・日吉山王を復興したことから「日吉山王の子だから復興したに違いない」という憶測となり「秀吉の父=日吉山王」となったのでしょう。
同説は、秀吉自身が台湾やインド副王など、外国に対して吹聴し始めたとも指摘されます。
また、他には「父親不明説」もあります。
母なかが若い頃に弥右衛門や竹阿弥以外の男性と子供を作ったというものですね。
さらには「漂白民説」や鍛冶師などの「職人説」に「行商人説」などありますが、秀吉と母なかが生前のうちに父の存在を明示していないから、数多の憶測が生まれたのでしょう。

大政所(なか)/wikipediaより引用
彼女は、秀吉が長浜城主になった頃、尾張から移り住んでいます。
その時点で父親は呼ばれていませんので、既に亡くなっていたと考えるのが自然。
豊臣家(羽柴家)については、父親の不在が兄弟の出世の動機に繋がったと思われますので、その影響を考えたほうが建設的かもしれません。
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【参考書籍】
黒田基樹『羽柴秀吉とその一族』(2025年5月 KADOKAWA公式サイト)
柴裕之『羽柴秀長 秀吉の天下を支えた弟』(2025年9月 KADOKAWA公式サイト)
小和田哲男『豊臣秀吉』(1985年 11月 中央公論新社公式サイト)
菊地浩之『豊臣家臣団の系図』(2025年11月 KADOKAWA公式サイト)
『秀吉の虚像と実像』(2016年7月 笠間書院公式サイト)



