山中鹿之介(山中幸盛)/Wikipediaより引用

信長公記 豊臣家

信長「鹿介の上月城は捨ておけ!」からの神吉城の戦い~信長公記166話

中国エリア毛利軍との対峙が膠着して久しく、さすがの豊臣秀吉も焦ったのか。

天正六年(1578年)6月16日、秀吉は自ら京都に赴き、直接、織田信長から指示を受けました。

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信長の決断は、非情ともいえるものでした。

「上月城の救援は諦めよ。先に神吉城(かんきじょう)と志方城(しかたじょう)を攻め取り、三木城の別所長治を攻略するのだ」

これはつまり、上月城に入っていた織田方の尼子勝久・山中幸盛(山中鹿介)を見捨てろ――ということを意味します。

彼らに上月城で毛利軍をひきつけさせておき、その間に長治の始末をつける作戦ともとれるでしょう。しかし……。

 

リスキーな上月城救援よりも……

上月城が包囲されてから、すでに二ヶ月ほどが経過。

三木城の攻略をどれだけ急いでも、救援に向かわなければ先に上月城の兵糧が尽きてしまう危険性の方が高いのでした。

ただし、以下の地図を御覧の通り、上月城の位置は、三木城や他の支城よりも西側の毛利サイドにあり、多くの救援部隊を送るにはリスクを伴います。

※黄色が織田方の上月城で、赤色が別所長治(毛利方)の三木城&支城

そうした状況を察知してか。

信長は、万見重元(まんみ しげもと)や祝重正(はふり しげまさ)などの武将数名を検使として派遣し、交代で現地の状況を報告させることにしました。

信長の目の届かないところで上月城の救援を粘ろうとするな――そういう意味でしょうか。

敵対相手が毛利氏という大国だからかもしれませんが、いずれにせよ非情な決意が見てとれます。

 

光秀や長秀など織田軍主力が攻撃開始!

信長は6月21日に安土へ帰還。中国方面には出陣していません。

前もって三木城周辺エリアへ進軍していた織田軍主力は(164・165話)、6月下旬から神吉城攻めに取り掛かりました。

毛利軍が上月城を包囲! 織田も大軍を送り出す、が~信長公記164・165話

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26日に滝川一益明智光秀丹羽長秀の軍が三日月山に登って陣取り、秀吉と荒木村重は高倉山から書写山まで撤収。

翌27日には本格的に攻撃を始めました。

織田信忠織田信孝林秀貞細川藤孝佐久間信盛が何段もの陣を布き、もう一つの支城である志方城は織田信雄が布陣。

丹羽長秀と若狭衆は状況に応じて動けるよう、西の山に陣取ったとあります。

神吉城へ激しく攻勢をかけ、特に信孝は足軽と先を争って奮戦したとか。

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しかし、城攻めというのは基本的に城方が有利なものです。

攻め手は外壁や堀など、さまざまな障害を崩していかねばなりません。

 

一益、坑夫に隧道を掘らせ、大砲を打ち込む

6月28日、織田軍は弾除けの竹束、堀を埋めるための大量の草など、様々な物資を用いて攻勢を続けました。

さらに、城の南から信長の弟・織田信包が攻め、丹羽長秀も攻め手に加わって東側から攻撃を始めるなど、徐々に攻め口を増やしました。

中でも、際立っていたのが滝川一益。

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南から東側を担当し、坑夫に隧道(ずいどう)を掘らせながらを築き、大砲を打ち込むなど、多様な攻め方をしております。

他の軍も昼夜を問わず攻め立てたためか、敵方は詫びを入れて和睦を申し出てきましたが……信長からの検使も来ていたため、これは却下されました。

一方そのころ秀吉は、傘下に入れたばかりの但馬へ行って国侍たちを呼び出し、改めて忠誠を誓わせていました。

竹田城には引き続き弟の豊臣秀長を置き、秀吉は書写山へ戻っています。すると……。
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