中国エリア毛利軍との対峙が膠着して久しく、さすがの豊臣秀吉も焦ったのか。
天正六年(1578年)6月16日、秀吉は自ら京都に赴き、直接、織田信長から指示を受けました。
信長の決断は、非情ともいえるものでした。
「上月城の救援は諦めよ。先に神吉城(かんきじょう)と志方城(しかたじょう)を攻め取り、三木城の別所長治を攻略するのだ」
これはつまり、上月城に入っていた織田方の尼子勝久・山中幸盛(山中鹿介)を見捨てろ――ということを意味します。
彼らに上月城で毛利軍をひきつけさせておき、その間に長治の始末をつける作戦ともとれるでしょう。しかし……。
リスキーな上月城救援よりも……
上月城が包囲されてから、すでに二ヶ月ほどが経過。
三木城の攻略をどれだけ急いでも、救援に向かわなければ先に上月城の兵糧が尽きてしまう危険性の方が高いのでした。
ただし、以下の地図を御覧の通り、上月城の位置は、三木城や他の支城よりも西側の毛利サイドにあり、多くの救援部隊を送るにはリスクを伴います。
※黄色が織田方の上月城で、赤色が別所長治(毛利方)の三木城とその支城(高砂城・神吉城・志方城)
そうした状況を察知してか。
信長は、万見重元(まんみ しげもと)や祝重正(はふり しげまさ)などの武将数名を検使として派遣し、交代で現地の状況を報告させることにしました。
信長の目の届かないところで上月城の救援を粘ろうとするな――そういう意味でしょうか。
敵対相手が毛利氏という大国だからかもしれませんが、いずれにせよ非情な決意が見てとれます。
光秀や長秀など織田軍主力が攻撃開始!
信長は6月21日に安土へ帰還。中国方面には出陣していません。
前もって三木城周辺エリアへ進軍していた織田軍主力は(164~165話)、6月下旬から神吉城攻めに取り掛かりました。
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毛利が上月城を包囲!織田も大軍を送り出すが|信長公記第164~165話
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26日に滝川一益・明智光秀・丹羽長秀の軍が三日月山に登って陣取り、秀吉と荒木村重は高倉山から書写山まで撤収。
翌27日には本格的に攻撃を始めました。
織田信忠と織田信孝、林秀貞と細川藤孝と佐久間信盛が何段もの陣を布き、もう一つの支城である志方城は織田信雄が布陣。
丹羽長秀と若狭衆は状況に応じて動けるよう、西の山に陣取ったとあります。
神吉城へ激しく攻勢をかけ、特に信孝は足軽と先を争って奮戦したとか。
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しかし、城攻めというのは基本的に城方が有利なものです。
攻め手は、外壁や堀など様々な障害を崩していかねばなりません。
一益、坑夫に隧道を掘らせ、大砲を打ち込む
6月28日、織田軍は弾除けの竹束、堀を埋めるための大量の草など、様々な物資を用いて攻勢を続けました。
さらに、城の南から信長の弟・織田信包が攻め、丹羽長秀も攻め手に加わって東側から攻撃を始めるなど、徐々に攻め口を増やしました。
中でも、際立っていたのが滝川一益です。
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南から東側を担当し、坑夫に隧道(ずいどう)を掘らせながら櫓を築き、大砲を打ち込むなど、多様な攻め方をしております。
他の軍も昼夜を問わず攻め立てたためか、敵方は詫びを入れて和睦を申し出てきましたが……信長からの検使も来ていたため、これは却下されました。
一方そのころ秀吉は、傘下に入れたばかりの但馬へ行って国侍たちを呼び出し、改めて忠誠を誓わせていました。
竹田城には引き続き弟の豊臣秀長を置き、秀吉は書写山へ戻っています。
結局、尼子&鹿介の主従は敗死へ
6月29日には、信長から新たな命令が届きました。
「毛利の水軍に備え、要所に陣を用意せよ」
石山本願寺攻めでも、毛利方の水軍によって兵糧を運ばれてしまい、織田軍が苦戦していたからでしょう。
新たに陣を設置するため、津田信澄(織田信勝の息子にして信長の甥)と山城衆、そして万見重元がやってきました。
適切な山に陣を布いたことを確認し、重元は信長へ報告するために帰っています。
また、信忠の命により、街道の要所要所を諸将が交代で警備した、とあります。
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おそらくは、三木城攻略前に毛利氏や本願寺による横槍が入らないように……ということでしょうね。
『信長公記』には記載されていませんが、毛利軍に囲まれていた山名幸盛(山中鹿介)の上月城は7月5日に降伏。
再興を願っていた主君の尼子勝久は切腹となり、鹿介は人質として連行される途中で毛利方に暗殺されました。
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非情な見方をすれば、織田家からはほとんど損害を出さずに、毛利軍の足止めができたということになりますね……。
ちなみに、7月8日には京都・金蓮寺で火災が起きたという記述もあります。「あった」ということだけで、詳細は書かれていません。
神吉城と志方城が続けて陥落
そして7月15日。
とうとう滝川一益と丹羽長秀の部隊が、神吉城東の丸への侵入に成功します。
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翌16日には神吉城中の丸へ攻め込み、城将・神吉則実を討ち取りました。
天守に火をかけ、残党と戦っているうちに燃え落ちたため、敵方の将兵の多くが焼死したといいます。
神吉城西の丸は村重が攻め、立てこもっていた神吉藤大夫が降参を申し出てきました。
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これを信盛と村重が信長に知らせると「赦免しても良い」とのことだったので、一命を助けています。藤大夫は志方城へ退去しましたが、すぐにこの城も織田軍に攻め取られました。
志方城については降参を受け入れたためか、あまり戦闘の経過が書かれていません。
神吉・志方両城ともに秀吉が受け取りを済ませ、志方城からは人質を取っています。
『信長公記』ではこの後の経過が一部省略されているのですが、織田軍はさらに三木城の支城をいくつか落とし、拠点を築いて、本格的に長治らを孤立させています。
しかしこの後に起きた”とある出来事”によって、三木城の攻略はかなり先延ばしになってしまうのです。
『信長公記』の記述としては、その前にいくつか別の話題が入りますので次回からはそれを見ていきましょう。
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【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)










