永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて、上洛した織田信長。
以来、三好一派などの周辺勢力と争いが続き、ようやく京都周辺を掌握した織田家にとって大きな課題がこれでした。
「大坂の石山本願寺や、中国地方の毛利氏という強大な敵とどう対峙するか?」
そんな天正六年(1578年)、先に中国地方で動いたのが毛利でした。
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上月城が毛利軍に包囲された!
天正六年4月中旬、安芸の毛利輝元が吉川元春・小早川隆景・宇喜多直家などを率いて、織田方の拠点となっていた上月城を包囲しました。
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上月城にいたのは、織田方として尼子家の再興を強烈に推し進める山中鹿介など。
彼らを討つべくして毛利軍は大亀山に本陣を置き、長期戦も辞さない構えを見せます。
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これに対し、羽柴秀吉と荒木村重が動き、高倉山に布陣しました。
しかし、熊見川と谷に隔てられ、なかなか上月城を救援できません。
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しかも、当時は別所長治が離反し、東西に敵を抱えている状態。
後に城攻めの名人と呼ばれる秀吉もこれは如何ともしがたく、身動きできない状態が続きます。
「自分も出陣して毛利と決着をつけよう」
その頃、信長は一旦安土に帰り、4月27日に再び上洛していました。
毛利方の動きを知ると
「5月1日に自分も播磨へ出陣し、毛利勢と決着をつけよう」
と言い出します。
佐久間信盛ら重臣たちはこれに大反対。
「まずは我々が行き、状況を確かめてご報告しますので、ご出馬はそれからになさっては」
そう進言すると信長もこれを受け入れ、家臣たちに出陣の準備をさせます。
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何かと「ワンマン・独裁」だと語られることの多い信長ですが、このように進言を容れて思いとどまることもあったんですね。
まずは三木城の支城に対峙する織田軍
続いて5月1日に織田信忠・織田信雄などの一門衆と、細川藤孝・佐久間信盛が出陣しました。
5月6日には明石近くの大窪に布陣。
先陣は神吉(かんき)・志方・高砂の3つの城に対峙しました。
これらは、別所長治のこもる三木城の支城です。現在の地名でいうと、神吉城と志方城は加古川市、高砂城は高砂市となります。
大まかな位置関係としては、
(西)上月城―高砂城・志方城・神吉城―三木城(東)
という感じです。
※黄色が織田方・上月城で、赤色が毛利方の三木城&支城
どのくらいの兵数なのかは記載がありませんが、当主である信忠が動いていることや、参加した武将の多さからすると、相当の規模であったことは間違いないでしょう。
戦の基本は数ですから、これでうまくいくかと思いきや……話は京都へ。
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