織田家 信長公記

毛利が上月城を包囲!織田も大軍を送り出すが|信長公記第164~165話

2020/07/18

永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて、上洛した織田信長。

以来、三好一派などの周辺勢力と争いが続き、ようやく京都周辺を掌握した織田家にとって大きな課題がこれでした。

「大坂の石山本願寺や、中国地方の毛利氏という強大な敵とどう対峙するか?」

そんな天正六年(1578年)、先に中国地方で動いたのが毛利でした。

📚 『信長公記』連載まとめ

 

上月城が毛利軍に包囲された!

天正六年4月中旬、安芸の毛利輝元が吉川元春・小早川隆景・宇喜多直家などを率いて、織田方の拠点となっていた上月城を包囲しました。

上月城にいたのは、織田方として尼子家の再興を強烈に推し進める山中鹿介など。

彼らを討つべくして毛利軍は大亀山に本陣を置き、長期戦も辞さない構えを見せます。

これに対し、羽柴秀吉と荒木村重が動き、高倉山に布陣しました。

しかし、熊見川と谷に隔てられ、なかなか上月城を救援できません。

しかも、当時は別所長治が離反し、東西に敵を抱えている状態。

後に城攻めの名人と呼ばれる秀吉もこれは如何ともしがたく、身動きできない状態が続きます。

 


「自分も出陣して毛利と決着をつけよう」

その頃、信長は一旦安土に帰り、4月27日に再び上洛していました。

毛利方の動きを知ると

「5月1日に自分も播磨へ出陣し、毛利勢と決着をつけよう」

と言い出します。

佐久間信盛ら重臣たちはこれに大反対。

「まずは我々が行き、状況を確かめてご報告しますので、ご出馬はそれからになさっては」

そう進言すると信長もこれを受け入れ、家臣たちに出陣の準備をさせます。

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何かと「ワンマン・独裁」だと語られることの多い信長ですが、このように進言を容れて思いとどまることもあったんですね。

 

まずは三木城の支城に対峙する織田軍

4月29日、まず滝川一益・明智光秀・丹羽長秀が出陣。

続いて5月1日に織田信忠・織田信雄などの一門衆と、細川藤孝・佐久間信盛が出陣しました。

5月6日には明石近くの大窪に布陣。

先陣は神吉(かんき)・志方・高砂の3つの城に対峙しました。

これらは、別所長治のこもる三木城の支城です。現在の地名でいうと、神吉城と志方城は加古川市、高砂城は高砂市となります。

大まかな位置関係としては、

(西)上月城―高砂城・志方城・神吉城―三木城(東)

という感じです。

※黄色が織田方・上月城で、赤色が毛利方の三木城&支城

どのくらいの兵数なのかは記載がありませんが、当主である信忠が動いていることや、参加した武将の多さからすると、相当の規模であったことは間違いないでしょう。

戦の基本は数ですから、これでうまくいくかと思いきや……話は京都へ。

 

出陣準備を進めるも豪雨に見舞われ

戦国大名にとって、敵は他の大名だけではありません。

せっかく出陣した織田軍ですが、天正六年(1578年)5月11日から、京都周辺で丸二日以上も豪雨が続きました。

村井貞勝がかけた四条の橋や、多くの家も流されて、多数の死者が出たといいます。

新暦では6月中旬頃のことですので、豪雨があってもおかしくない時期です。

しかしこの雨の前から、信長は「5月13日に出陣する」と命じていました。

信長は基本的に、予定を決めたら変更しない人です。そのため、皆は今回も予定通り出立するだろうと考え、雨の中で出陣の支度を続けました。

淀や鳥羽などの者たちは、数百艘の船を手配し、五条の油小路まで参上・待機したそうです。

この報告を受け、信長は大変喜んだとか。

『信長公記』にはこの後出陣したのか、そもそもどこへ行く予定だったのかが書かれていません。

前の節の流れからして、既に中国方面へ出陣していた信忠たちの後詰に行く予定だったと思われます。

しかし、24日には秀吉軍からの使者として竹中半兵衛(重治)が京都へやってきていますので、おそらくこのときの信長は京都にとどまっていたのでしょう。

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一息ついて祇園会見物や鷹狩など

半兵衛は備前八幡山の城主が秀吉軍の味方についたと報告し、信長はこれにも満足。

秀吉に黄金100枚、半兵衛に銀子100両を下賜しています。

この報告を受け、中国方面にはまだ自ら出陣する必要がないと感じたのか、27日には洪水の被害を確かめるため、信長は一度安土へ戻りました。

お小姓衆だけを連れて行ったとのことですので、最初からすぐ戻るつもりでいたと思われます。

また、松本~矢橋の間は、琵琶湖を舟で渡ったとあります。

安土の被害については特記がありませんが、6月10日には同じルートを使って再び上洛しています。洪水の被害自体はさほどでなくても、それなりに処理すべきことがあったのでしょう。

おそらく信忠はまだ中国に対陣中の時期だったと思われますし、美濃・尾張などの状況を確かめ、指示をしていたのかもしれません。

再上洛後の6月14日には、祇園会見物をしています。

このとき、信長は身辺警護をするお馬廻衆・お小姓衆にも「武装は無用」と命じていたとか。そのため、みな武器を持たずにお供をしたそうです。

その後、お小姓衆10人ほどを連れて鷹狩に出かけています。なんだか意外と呑気ですが、行き先は書かれていません。

この日は、近衛前久に普賢寺(京田辺市)あたりで知行1500石を進呈したそうですので、このお寺の近くへ行っていたのでしょうか。

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次回は「神吉城と志方城」の攻略に取り掛かります。

📚 『信長公記』連載まとめ

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【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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