中国方面で豊臣秀吉や織田信忠などが毛利勢と戦っていた頃、織田信長たちは石山本願寺攻めに備えていました。
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そもそも石山本願寺との争いがなぜ長引いているのかというと、いくつかの理由に分けられます。
・信徒が多くしかも結束力が強い
・雑賀衆や毛利氏など、外部の協力者がいた
・石山本願寺のエリア全体が城郭化していて攻めにくい
・財力や兵糧が潤沢
この中で、まず削り落とすとすれば、やはり兵糧や外部との協力を断つことです。
そうして起きたのが【丹和沖の海戦(たんのわおきのかいせん)】でした。
※丹和=淡輪(大阪府泉南郡岬町)
九鬼嘉隆に命じて大船六艘を建造
大坂は海に面した土地ですから、流通や合戦においては船が必須。
しかし、石山本願寺に味方する毛利水軍は強力ですから、普通の軍船で戦っても【第一次木津川口の戦い・138話】のときに織田軍が完敗するのは明らかです。
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そのため信長は、九鬼嘉隆に新たな大船を六艘作らせていました。
これが今日「鉄甲船」と呼ばれているものだったとされていますが、『信長公記』には構造に関する詳しい記述がないため、現在でも実在したかどうか確定していません。
多聞院日記など、別の史料に「鉄の船」と書かれていることや、この後の戦闘の経過から鉄甲船と呼ばれるようになったのではないかと思われます。
また、滝川一益にも白木の大船を一艘作らせていたようです。わざわざ別に作らせるからには、別の用途を考えていたと思われますが……それに関する記述はありません。
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小舟をひきつけ大砲ズドン!
船は無事完成し、天正六年(1578年)6月26日に順風を見計らって熊野灘へ押し出し、そのまま大坂へ回送しようとしました。
そこへ丹和沖から一向宗方の小舟が大量にやってきて、矢と鉄砲で織田方の船を攻撃してきます。
嘉隆はこの時指揮を執っていましたので、前回の敗北を思い出し、奮起したことでしょう。
小舟の多くを充分ひきつけ、あしらってから大砲を一度に撃ち、見事撃退しました。
残った小舟の面々は怖気づき、手を出してこなくなったため、無事に航行することができたようです。
7月17日には、無事に堺へ到着。
見たこともない大きさの船に堺の人々は驚き、見物人が押し寄せたといいます。
おそらくは、この時点で「信長の船団が一向宗方に勝った」ということは広く伝わっていたことでしょう。
そこから
「大坂の船団に勝つなんて、きっと鉄のように頑丈な船だったに違いない」
というような噂が広まり、”鉄のような船”が伝聞されていくうちに”鉄で出きた船”という話になったのではないでしょうか。
先述『多聞院日記』の著者も、直接この船を見たわけではなかったようですしね。
ともかく翌18日、大坂沖の要所にこれらの船を配置し、本願寺と毛利軍の連絡を遮断することができました。
充分に役目を果たした嘉隆と大船に、信長も満足したようです。後に嘉隆らへかなりの褒美を出しています。
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信長公記をはじめから読みたい方は→◆信長公記
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
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