来島通総/wikipediaより引用

信長公記 毛利家

第一次木津川口の戦いで村上水軍にフルボッコ!焙烙火矢の恐怖 信長公記138話

信長の生涯において最も長期化した戦いの相手――それが石山本願寺です。

合間合間に停戦した期間はありますが、元亀元年(1570年)に敵対し、天正8年(1580年)に完全和解するまで(織田方が実質勝利)、約10年もの月日を要しています。

『それだけ本願寺が強敵だったのであろう』

と、思われるかもしれませんが、単純にそうとも言い切れません。

以下の記事でも取り上げたように大坂城には最強の鉄砲傭兵集団・雑賀衆がおり、

天王寺砦の戦いで信長撃たれる! 雑賀衆の怖さよ~信長公記136・137話

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さらには籠城を支える物資の運び手もいました。

毛利家と村上水軍です。

瀬戸内海の海運を担う村上水軍を初めて相手にした織田家は、手痛いまでの大敗を喰らいます。

それが【第一次木津川口の戦い】です。

 

大坂湾に現れた瀬戸内海の王・村上水軍

天正四年(1576年)7月15日のこと。

中国・安芸を拠点とする村上水軍が、大船7~800艘という大船団で大坂へやってきました。

【村上水軍】
・村上元吉 ※『信長公記』では能島元吉(のしまもとよし)
・来島通総(くるしま みちふさ)
・乃美宗勝

という毛利ファンにとっては錚々たるメンツで、本願寺方についた毛利家の意向により、兵糧を補給しにきたのです。

正確には、毛利水軍の海将15名のうち5名が村上水軍で中心になっており、石山本願寺に入っていた雑賀衆と同様、傭兵集団でもありました。

毛利家では、このころ毛利元就はすでに亡くなっており、その長男の毛利隆元も他界。

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隆元の息子である毛利輝元が家督を継いでおりましたが、戦国ファンの皆様にはよく知られたように毛利家には強力な元就の次男・三男がおりました。

吉川と小早川の川をとって「両川」とも呼ばれたりしますね。

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彼らの命令で瀬戸内海を渡ってきたのでしょう。村上水軍が石山本願寺に近づことすると、当然、これを阻止すべく織田家の水軍も海へ繰り出します。

300艘ほどの軍船で出航し、お互いに漕ぎ寄せると、一大海戦が始まりました。

今日こんにち【第一次木津川口の戦い】と呼ばれる合戦の始まりです。

 

恐怖の焙烙火矢

戦国時代の「海戦」は、おおむね「船の上での戦闘」を指します。

敵の船に飛び移ったり、逆に、味方の船に乗り移ってきた敵を斬ったり。自然と白兵戦が多くなるわけですが、海上・船上での戦いは陸上よりも時間がかかり、狭い船の中で立ち回るため人的損耗も増えやすくなります。

早い話、危険なんですね。

ゆえに海戦では、とにかく先に“有利な状況”を作った方が勝率は高まり、その有利な状況とは、白兵戦の前に行われる「飛び道具の性能」にかかっておりました。

村上水軍は、圧倒的有利な兵器を持っていました。

焙烙火矢(ほうろくひや)です。

現代兵器でいえば手榴弾が近いでしょうか。

陶器の皿のようなもの2枚の間に火薬を挟んで紐で固定、点火してから投げつけるという仕組みでした。

少々余談ですが、焙烙自体は本来、調理器具です。「素焼きのフライパン」と表現されたりします。

江戸時代ではそちらの用途で使われていて、むしろ焙烙火矢が異質なんですね。

とにかくこの焙烙火矢がヤバかった。
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