信長の生涯において最も長期化した戦いの相手――それが石山本願寺です。
合間合間に停戦した期間はありますが、元亀元年(1570年)に敵対し、天正8年(1580年)に完全和解するまで(織田方が実質勝利)、約10年もの月日を要しています。
『それだけ本願寺が強敵だったのであろう』
と、思われるかもしれませんが、単純にそうとも言い切れません。
以下の記事でも取り上げたように大坂城には最強の鉄砲傭兵集団・雑賀衆がおり、
-

天王寺砦の戦いで信長撃たれる!雑賀衆の怖さ|信長公記136~137話
続きを見る
さらには籠城を支える物資の運び手もいました。
毛利家と村上水軍です。
瀬戸内海の海運を担う村上水軍を初めて相手にした織田家は、手痛いまでの大敗を喰らいます。
それが【第一次木津川口の戦い】です。
大坂湾に現れた瀬戸内海の王・村上水軍
天正四年(1576年)7月15日のこと。
中国・安芸を拠点とする村上水軍が、大船7~800艘という大船団で大坂へやってきました。
【村上水軍】
・村上元吉 ※『信長公記』では能島元吉(のしまもとよし)
・来島通総(くるしま みちふさ)
・乃美宗勝
という毛利ファンにとっては錚々たるメンツで、本願寺方についた毛利家の意向により、兵糧を補給しにきたのです。
正確には、毛利水軍の海将15名のうち5名が村上水軍で中心になっており、石山本願寺に入っていた雑賀衆と同様、傭兵集団でもありました。
毛利家では、このころ毛利元就はすでに亡くなっており、その長男の毛利隆元も他界。
-

毛利元就の生涯|中国地方8カ国を制した 稀代の謀将が描いた戦略とは?
続きを見る
-

毛利隆元(元就長男)の生涯|失って初めて実感する跡取りの偉大さ
続きを見る
隆元の息子である毛利輝元が家督を継いでおりましたが、戦国ファンの皆様にはよく知られたように毛利家には強力な元就の次男・三男がおりました。
・吉川元春
・小早川隆景
吉川と小早川の川をとって「両川」とも呼ばれたりしますね。
-

吉川元春の生涯|毛利の躍進を支えた元就の次男 その事績と奥方に注目
続きを見る
-

小早川隆景の生涯|大国毛利を支えた“王佐の才”は太閤殿下にも愛されて
続きを見る
彼らの命令で瀬戸内海を渡ってきたのでしょう。村上水軍が石山本願寺に近づことすると、当然、これを阻止すべく織田家の水軍も海へ繰り出します。
300艘ほどの軍船で出航し、お互いに漕ぎ寄せると、一大海戦が始まりました。
今日【第一次木津川口の戦い】と呼ばれる合戦の始まりです。
恐怖の焙烙火矢
戦国時代の「海戦」は、おおむね「船の上での戦闘」を指します。
敵の船に飛び移ったり、逆に、味方の船に乗り移ってきた敵を斬ったり。自然と白兵戦が多くなるわけですが、海上・船上での戦いは陸上よりも時間がかかり、狭い船の中で立ち回るため人的損耗も増えやすくなります。
早い話、危険なんですね。
ゆえに海戦では、とにかく先に“有利な状況”を作った方が勝率は高まり、その有利な状況とは、白兵戦の前に行われる「飛び道具の性能」にかかっておりました。
村上水軍は、圧倒的有利な兵器を持っていました。
焙烙火矢(ほうろくひや)です。
現代兵器でいえば手榴弾が近いでしょうか。
陶器の皿のようなもの2枚の間に火薬を挟んで紐で固定、点火してから投げつけるという仕組みでした。
少々余談ですが、焙烙自体は本来、調理器具です。「素焼きのフライパン」と表現されたりします。
江戸時代ではそちらの用途で使われていて、むしろ焙烙火矢が異質なんですね。
とにかくこの焙烙火矢がヤバかった。
為す術なく全滅~数多の武将も討死
当時の船は大部分が木製。当然のことながら火気厳禁です。
海上では逃げ場もないので、いったん失火すると被害の拡大が避けられません。
しかも船上の場合、いかに波が穏やかでも揺れは避けられません。敵の船に放火しようとしても、通常の火矢よりも焙烙火矢のほうが圧倒的に楽です。
弓をつがえてから狙いを定めて射るより、焙烙火矢に火をつけて投げるほうが早く、使い手の隙も少なくなります。
つまり一方的に攻撃し続けられるのです。
数で劣る上に、思わぬ兵器を使われた織田家の水軍は、この焙烙火矢の攻撃をマトモに受け、壊滅的な被害を受けました。
『信長公記』には人数の記載がないものの、迎え撃ったほとんどの武将が討死したと書かれています。
陸上では本願寺勢が襲いかかってきた
海上での混乱に乗じるかのようにして、地上では石山本願寺方が攻撃にでてきました。
楼岸(ろうのきし)などの砦から出撃すると、住吉海岸の織田方の砦に攻めてきたのです。
こちらは天王寺砦にいた佐久間信盛が迎撃し、押しつ押されつで長時間の戦闘になったといいます。
-

佐久間信盛の生涯|なぜ織田家の重臣は信長に追放されたのか?退き佐久間の末路
続きを見る
陸戦は痛み分けといったところですが、海戦では織田軍の圧倒的な敗北。安芸の水軍は、本願寺への兵糧補給を成功させると、本領の西国へ引き揚げていきました。
総合的に見れば、織田軍にとってかなりの痛手といえます。
もちろんこの報告は織田家にも届き、信長も出馬しようとしましたが、既に決着がついてしまっていたため、見合わせています。
-

織田信長の生涯|生誕から本能寺まで戦い続けた49年の史実を振り返る
続きを見る
討死した人々の後任として、住吉海岸の砦に新たな城番を入れて終わりました。
当然、これで終わる織田信長ではありません。
焙烙火矢への「対策」を練り次なる海戦に備えるのですが、それはまた後日の記事にて。
あわせて読みたい関連記事
-

毛利元就の生涯|中国地方8カ国を制した 稀代の謀将が描いた戦略とは?
続きを見る
-

毛利隆元(元就長男)の生涯|失って初めて実感する跡取りの偉大さ
続きを見る
-

吉川元春の生涯|毛利の躍進を支えた元就の次男 その事績と奥方に注目
続きを見る
-

小早川隆景の生涯|大国毛利を支えた“王佐の才”は太閤殿下にも愛されて
続きを見る
-

佐久間信盛の生涯|なぜ織田家の重臣は信長に追放されたのか?退き佐久間の末路
続きを見る
【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)








