「努力と根性」というとふた昔くらい前のスポ根マンガかよ! という感がありますが、誰しも一生に一度くらいはそういうときがありますよね。
受験勉強だったり、婚活だったり、仕事だったり……。
本日はそんな感じで一つのことを20年以上かけてやり遂げた、とある実業家のお話です。
大正十一年(1922年)5月16日は、和井内貞行が亡くなった日です。
「わいないさだゆき」と読みます。
と言っても「誰それ?」というツッコミが来そうなので、さっそく彼の生涯を追いかけて行きましょう。
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盛岡藩陪臣の家系に生まれた
和井内は安政五年(1858年)、盛岡藩の城代を務める桜庭家の家老の家に生まれました。
盛岡藩主からすれば陪臣ということになります。
この時代の青年ですから10歳前後で幕末の動乱を肌に感じながら育ったことでしょう。儒学などの学問に励み、17歳で小学校の教員になりました。
後に、影に日向に支えてくれる妻・カツとは21歳のときに結婚。
24歳で工部省(鉄道や鉱山をはじめとしたインフラを担当する官庁)の役人となり、順風満帆な人生に見えました。
が、勤めていた官営の鉱山が民間企業に払い下げられ、役人から会社員になったことで、彼の運命は大きく変わります。
当時この近辺にはいくつかの鉱山があり、そこで働く鉱夫たちの栄養状況を改善すべく、和井内はたんぱく源になる食べ物を供給できるようにしようと考えたのです。
そこで目をつけたのが、広さが十分あり、水質も良い十和田湖でした。
魚を養殖して、すぐに魚を食べられるようにしよう!と考えたのです。
女神に嫌われて魚が住めない湖!?
県からの許可を得るところまでは比較的スムーズに行きました。
業績不振で鉱山が閉じられると、大義名分がなくなってしまい、一度手を引かなければならなくなりますが、和井内は即座に養殖を諦める気になれません。
40歳のときに会社を辞め、再び十和田湖にやってきて旅館を経営しながら、魚を定住させるための活動を再開します。
元がお偉いさんの家とはいえ、既に江戸幕府も藩という概念もなくなり、和井内家に金銭的な余裕はありません。
養魚を効率良く行うための技術・知識習得にもお金がかかりますし、魚の卵や稚魚を手に入れるにも、まとまったお金が必要です。
さらに、当時の十和田湖自体も厳しい環境でした。
十和田湖は奥入瀬川(おいらせがわ)しか海と通じていないためか、人間が手を加える前は、イモリとサワガニくらいしかいなかったというスゴイところ。
地元では「十和田湖に祀られている清瀧権現(せいりゅうごんげん)という女神が魚が嫌うため、魚が住まない」といわれていました。
実際には和井内より前にイワナや鯉を放流した人がいたらしいのですが、食卓に登るほどの量になっていなかったか、もしくは成長・繁殖できなかったのでしょう。
青森の漁業組合で偶然出会った「カバチェッポ」
それを裏付けるかのように、和井内が放ったさまざまな魚の卵や稚魚は、なかなか定着しませんでした。
一度、鯉の繁殖に成功したのですが、需要と供給のバランスが釣り合っていなかったのか、すぐに獲れなくなってしまっています。
すっかり気落ちした和井内でしたが、彼は諦めずに「十和田湖に住めて、順調に繁殖していけるような種類の魚はいないものだろうか」と探し続けます。
そして、青森の漁業組合で偶然に「カバチェッポ」という魚の存在を知るに至りました。
後に「ヒメマス」と呼ばれるようになる魚のアイヌ語名です。
アイヌ語では「チップ」という呼び名もあるそうで。現在ではヒメマスの名で広まっているようなので、以下「ヒメマス」で統一しますね。
ヒメマスは、北米大陸やロシアの東の果てにあるカムチャッカ半島を原産とする魚です。
日本でも北海道の阿寒湖やチミケップ湖に生息していました。実はベニザケと同じ魚で、海に行かず川や湖などの淡水で暮らすもののことをいいます。
よく食肉で「◯◯だけを与えて育てました」というように餌によって質や味が変わるものがありますが、魚も環境で味が変わるんですね。
和井内は「北海道に住める魚なら、十和田湖でも住めるに違いない!」と一縷の望みを託し、卵を買って十和田湖へ帰りました。
妻・カツも自分の着物や櫛、懐中時計などを質に入れて資金調達に協力したそうです。
糟糠の妻という感じですね(´;ω;`)ブワッ
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