明智軍13,000に攻められ、敢えなく陥落した本能寺。
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業火の炎に包まれ焼け落ちる中に織田信長の遺体は見つからず、明智光秀が焦燥に駆られる頃、いち早く行動に出たのが中国地方で毛利と対峙していた豊臣(羽柴)秀吉だった。
和睦を結び、備中高松城の清水宗治を自害させると、後に「中国大返し」と呼ばれる進軍作戦で畿内へ。
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その頃、織田家中でも随一の実力者が揃った「北陸方面軍」は上杉家の魚津城を取り囲み、今まさに陥落のところだった……。
魚津城陥落
◆本能寺の変の頃、そういや柴田勝家って何してたの?
明智光秀を打ち破り、きっちりカタキを取った秀吉に対し、あまり知られていないのが、北陸方面軍かもしれません。
前田利家や佐々成政を率いた勝家は上杉方の魚津城を取り囲んでおり、本能寺の変翌日には同城を陥落させていたのです。
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この頃、上杉の当主だった景勝は、後詰のため魚津城付近まで来ておりましたが、信州(長野県)や上州(群馬県)から本拠地・春日山城を脅かされる動きがあり、仕方なく越後へ戻ってしまいました。
ゆえに魚津城の12将は耳に鉄線を通した名札をつけ、討ち死にを覚悟したという書状が残っております……。
それが『魚津在城衆十二名連署状』でした。
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やっときた知らせ
◆若かりし頃から信長に仕え、織田家の成長と共に自身も出世してきた柴田勝家に前田利家。
一時は弟・織田信勝(織田信行)を担ぎ上げ、信長の命も狙った柴田勝家ですが、家中がひとつにまとまってからは文字通り粉骨砕身で合戦働きをし、その地位も家臣では筆頭の位置にまで上り詰めておりました。
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一方、少年の頃から信長と共に成長してきた前田利家は、君主と家臣という単純な結びつきだけでなかったでしょう。
笄(こうがい)事件とか思い出したりしたのかなぁ。
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利家さんの本気で絶望している姿を思うと、まさしく走馬灯のように様々な記憶が甦ってきた気がしてなりません。
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