来島通総/wikipediaより引用

信長公記 毛利家

第一次木津川口の戦いで村上水軍にフルボッコ!焙烙火矢の恐怖 信長公記138話

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為す術なく全滅~数多の武将も討死

当時の船は大部分が木製。当然のことながら火気厳禁です。

海上では逃げ場もないので、いったん失火すると被害の拡大が避けられません。

しかも船上の場合、いかに波が穏やかでも揺れは避けられません。敵の船に放火しようとしても、通常の火矢よりも焙烙火矢のほうが圧倒的に楽です。

弓をつがえてから狙いを定めて射るより、焙烙火矢に火をつけて投げるほうが早く、使い手の隙も少なくなります。

つまり一方的に攻撃し続けられるのです。

小早川隆景家臣の乃美宗勝も船に乗っていた/wikipediaより引用

数で劣る上に、思わぬ兵器を使われた織田家の水軍は、この焙烙火矢の攻撃をマトモに受け、壊滅的な被害を受けました。

『信長公記』には人数の記載がないものの、迎え撃ったほとんどの武将が討死したと書かれています。

 

陸上では本願寺勢が襲いかかってきた

海上での混乱に乗じるかのようにして、地上では石山本願寺方が攻撃にでてきました。

楼岸(ろうのきし)などの砦から出撃すると、住吉海岸の織田方の砦に攻めてきたのです。

こちらは天王寺砦にいた佐久間信盛が迎撃し、押しつ押されつで長時間の戦闘になったといいます。

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陸戦は痛み分けといったところですが、海戦では織田軍の圧倒的な敗北。安芸の水軍は、本願寺への兵糧補給を成功させると、本領の西国へ引き揚げていきました。

総合的に見れば、織田軍にとってかなりの痛手といえます。

もちろんこの報告は織田家にも届き、信長も出馬しようとしましたが、既に決着がついてしまっていたため、見合わせています。

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討死した人々の後任として、住吉海岸の砦に新たな城番を入れて終わりました。

当然、これで終わる織田信長ではありません。

焙烙火矢への「対策」を練り次なる海戦に備えるのですが、それはまた後日の記事にて。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon

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