1563年9月1日(永禄6年8月4日)は、毛利隆元が亡くなった日です。
中国地方の覇者・毛利元就の長男ですね。
この人について知られていることというと、元就よりも早く亡くなったことや、なかなか卑屈な手紙・言動を残していることくらいでしょうか。
そのせいで「根暗」「暗愚」との印象も持たれがちですが、生涯を追いかけて行くと、実はそうでもなかったりします。
本当はどんな人だったのでしょうか。
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毛利隆元が大内家へ 3年間を過ごす
毛利隆元は、大永三年(1523年)に生まれました。
戦国時代というとだいたい織田信長を中心に語られることが多いですが、信長は天文三年(1534年)生まれとされているので、隆元のほうが歳上になります。
割と早い時代の人なんですね。
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14歳のときには、当時、毛利家のボスだった大内家へ人質に出され、山口に三年間滞在。
そこでの待遇は決して悪くはなく、いわば今川義元と徳川家康のような感じだったようです。
隆元が整った顔立ちをしていたので、大内家の当主・大内義隆には色んな意味で気に入られたとか。
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人質になった年に大内義隆のもとで元服し、「隆」の字をもらっているくらいです。
寵愛ぶりがわかるというかなんというか。
隆元も、義隆を主君・恩師として慕っていたようです。
突然家督を譲られるも実権は元就
毛利家に戻って初陣を果たすと、天文十五年(1546年)に突然、元就から家督を譲られております。
しかし、実際の権限は元就がずっと持っていました。
これは、大内家での三年間で、隆元が義隆の影響を受けすぎて、すっかり文学好きになってしまったことも影響しているようです。
そのため、毛利家に戻ってからは、元就や家老の志道広良(しじひろよし)によって武将としての心得を叩きこまれています。
おかげで度胸がつき、その後の戦では肝の据わったところをたびたび見せました。
【厳島の戦い】の際、悪天候で渋る元就に「今やらないでどうします!」(意訳)と活を入れたのも隆元だったとか。かっちょいい。
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話が前後しますが、26歳のときに大内家の重臣である内藤興盛の娘・尾崎局と結婚しています。
その後なんやかんやで大内家とのつながりが切れた後も、尾崎局をとても大切にしていたそうです。
どのくらいかというと「特に用事はないけど、吉田郡山城(当時の毛利家本拠)に戻る人がいたから、ついでに手紙を届けてもらうことにしたよ」なんて手紙を書いたこともあるほど。
どう見てもノロケです、ありがとうございました。
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