相模湾西北部を震源とするマグニチュード7.9の関東大地震が首都圏を襲いました。
地震の規模が甚大なことはもちろん、お昼時というタイミングや木造家屋の密集から、火災による被害が壊滅的。
どれだけ強烈なダメージだったか?
というと、例えば当時は市政だった東京市だけでも、犠牲者58,420人のうち、実に9割以上の52,178人が焼死という惨状でした。
全体の死者も105,385人※1にのぼり、現在まで【関東大震災】として伝わる、世界規模でも他に類を見ない大災害となっています。
地震(揺れ)自体は【関東地震】とか【関東大地震】などとも呼ばれますが、では、当時の日本は関東大震災から如何にして立ち直ったのか?
現代の我々にも決して無縁ではない、復興までの道のりを中心に関東大震災を振り返ってみましょう。
※1資料によっては死者99,331人・行方不明者43,476人など
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関東全域を襲った大地震と虐殺
日本史上でも、未曾有の被害となった関東大震災。
火災の影響により社会インフラが壊滅し、警察組織すらも麻痺してしまいます。
市中は大混乱に陥り、やむなく当時の陸軍が戒厳令を発令すると、東京や神奈川など、被害が大きかった地域は戒厳司令部の指揮下に入りました。
陸軍は、本来の業務である治安維持だけでなく、被災者の救済活動に乗り出したほどです。
そんな軍部の働きにより一時は民衆も落ち着きを取り戻たかのたようでした。
しかし、極限状態に陥った状況の最中「朝鮮人が治安を乱そうとしている」といったデマが飛び交い、やがて自警団が彼らを虐殺する痛ましい事件も発生しています。
他にも、政府にとって「目の上のたんこぶ」だった社会主義者や無政府主義者たちが虐殺の被害に遭い、戒厳司令部や時の政府による「どさくさ紛れの殺害もあったのではないか?」と見る研究者も少なくありません。
いずれにせよ、当時の日本が抱えていた問題点が噴出したことは間違いなく、発生から100年余りが経過した現代に至るまで9月1日は「防災の日」に制定されています。
では、注目の復興については誰がどう進めたのか?
後藤新平「帝都復興」に乗り出す
東京を中心とした関東の早期復興は、政府にとって何よりの急務でした。
震災直後、内閣総理大臣は海軍閥出身の山本権兵衛に代わり、山本内閣の中で実質的に副総理の地位にあった後藤新平内務大臣が帝都復興を主導してゆきます。
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後藤はまず復興の基本方針を定めました。
「東京の復興と同時に、都市潰滅を逆手にとって帝都を進化させる」
計画のポイントは「単なる旧状復帰」ではなく「帝都の造り変え」であり、莫大な予算を投じる予定でした。
こうして誕生したのが、帝都の復興を専門的に取り仕切る「帝都復興院」です。
後藤は人事に際して自らが積み上げてきた台湾総督や逓信大臣といった豊富なキャリアを利用し、気心が知れた参謀たちを集めました。
復興に必要な計画立案者や、実行に際して必要な技術者などをかき集め、前例のない大規模な都市復興に着手していったのです。
政府内での対立から計画は暗礁
国の独立機関として都市復興に着手した帝都復興院。
原案に基づいて帝都復興審議会が組まれると、後藤新兵だけでなく、渋沢栄一や犬養毅、高橋是清、伊東巳代治といった顔ぶれも集結しました。
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後藤が打ち出した未曾有の復興計画に対し、当時の大蔵大臣である井上準之助はおおむね同情的な姿勢を示しています。
ならば、すぐさま復興に着手……と思いきや……。
30億円規模の予算は不可能だと判断され、最終的には7億円程度に落ち着いてしまいます。
一体そこでは何が起きていたのか?
彼らが起草した原案は、復興審議会の中で大きな論争を引き起こしました。
特に、強固な反対姿勢を打ち出したのが伊東巳代治であり、
「そんな金はないし、地主の土地所有権を脅かすのではないか。そもそも、国を挙げて復興など必要なのか?」
という姿勢でした。
すると高橋是清や加藤高明などもこれに続き、当初の計画案は頓挫してしまったのです。
財界を代表する形で出席していた渋沢栄一が後藤の政府案に同情を示し、特別委員会も開かれましたが、そこでも伊東巳代治が政府案への反対姿勢を強めるばかり。
最終的に予算は増えるどころか1億円以上削減され、計画は、大幅な縮小を余儀なくされました。
ではなぜ巳代治がそこまで反対したのか?
彼の頑なな姿勢については「銀座に持っている土地の権利を奪われると危惧しているせいじゃないか?」という憶測がありました。
さらには、藩閥政治などの影響により、山本や後藤を「政敵」と見なした派閥が、手柄を挙げさせることを嫌ったのでは?という見解も。
まったく非常時に何をやっているんだ……と嘆きたくもなりますが、それでも兎も角、後藤は国家として東京の復興を目指さねばなりません。
そのとき一体どう動いたのでしょう?
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