関東大震災の復興

関東大震災で壊滅的となった横浜市中区/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

関東大震災の復興で政争とかヤメて~後藤新平の帝都復興は困難の連続だった

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後藤は計画の完成を見ることなく……

同志であるはずの復興委員に反対され、大幅な規模縮小を余儀なくされた関東大震災後の復興計画。

後藤には逆風が続きます。

震災の翌年、当時の皇太子(昭和天皇)が襲撃された【虎の門事件】の責任を取り、わずか半年程度で山本権兵衛が総理の座を辞することになったのです。

それでも後藤はできる限りの帝都復興を目指しました。

東京市長だった経験も活かして、政府と自治体を連携させ、まずは「区画整理」に着目した計画の実現に奔走。

自身に近い部下たちに区画整理の啓蒙を命じ、住民たちの「土地が奪われる」という警戒感を和らげていきました。

その結果、昭和5年(1930年)に計画自体はおおむね成功し、東京の道路網や街路、公園などは見違えるほど近代的な姿となりました。

「東京の復興は軍事的なものではなく、商業的なものにすべきだ」という復興計画の理念が反映されたのです。

しかし、です。

当の後藤は、不幸にも前年の昭和4年に脳卒中でこの世を去っており、計画の完成自体を見ることはできませんでした。

 

昭和天皇が残された言葉

後藤が発案した復興計画は、実は民間からも「大風呂敷だ」と非難されていました。

しかし現代ではその評価を一変させています。

戦後になって再評価され、実際、私たちの生活を確かに支えているのです。

例えば、隅田公園や錦糸公園、浜町公園なども復興事業の一環で整備され、現代の東京における名所として親しまれています。

これらの公園の規模は当時、世界でも類を見ないもので、日本を視察に来たアメリカ人の専門家も称賛したという話が残されているほど。

だからこそ、後藤の復興計画が当初の予定のままに進んでいたら、東京はどうなっていたのか?という、禁断の歴史IFも考えたくなってしまいます。

昭和天皇が震災の60年後、こんな言葉を残されているのです。

「震災ではいろいろな体験はありますが、ひとことだけいっておきたいことは、復興にあたって後藤新平が非常に膨大な復興計画を立てた。もし、それがそのまま実行されていたら、おそらく東京の戦災(東京大空襲)は非常に軽かったんじゃないかとおもって、いまさら後藤新平のあのときの計画が実行されなかったことを非常に残念におもいます......」

天皇から見ても惜しむべき計画だったのでしょう。

後藤の計画が反対されたのは予算規模や政争だけでなく、何より

「前例がないから」

といった理由が大きかったように思えます。

おそらく日本特有の、過度な保守的思考が働いていたのではないでしょうか。

大災害については「前例」がないのが当然であり、現代に生きる我々もその辺を強く意識して、有事に備える必要がありそうです。

昨今は新型コロナウイルスの流行により私たちの日常も危機に瀕していますが、海外ではすでにコロナ前の生活に戻っています。

政争により縮小されたとされる後藤の復興計画について、我々も今あらためて考えるべきかもしれません。

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文:とーじん

【参考文献】
『朝日日本歴史人物辞典』(→amazon
『日本大百科全書(ニッポニカ)』(→amazon
渋沢栄一記念財団編『渋沢栄一を知る事典』(→amazon
越澤明『後藤新平』(→amazon
松尾章一『関東大震災と戒厳令』(→amazon
事業構想「関東大震災から東京を復興させた「国家の医師」後藤新平」(→link
時事通信「関東大震災」(→link
渋沢栄一記念財団「関東大震災後における渋沢栄一の復興支援」(→link
渋沢栄一記念財団「渋沢栄一と関東大震災」(→link

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