火山や大地震、台風など、日本が災害大国だというのは自他共に認めるところでしょう。
とりわけ江戸時代以降となれば、飢饉や火事などの被害を受けない時期のほうが珍しいほど。
現代の東日本大震災や阪神淡路大震災はもちろんのこと、関東大震災や明治三陸地震など、やはり地震による被害が長く語り伝えられてきました。
しかし、その一方で被災地の復興やその後の様子は意外に知られていないですよね。
昭和五年(1930年)3月24日は、関東大震災からの【帝都復興祭】が行われた日です。
帝都とは東京のこと。
当時の国号が「大日本帝国」だったからこのような呼称なんですね。
地震が発生したのが大正12年(1923年)9月1日だったので、約6年半後のこととなります。
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「記念」=お祝いではありません
関東大震災の原因となった大正関東地震が起きた9月1日は「防災の日」として記憶されています。
しかし、この復興祭のことはあまり知られていません。
かつて総理が「3月11日を記念日に」と言っていたのは、おそらく「防災の日と同じように何十年、何百年後も3.11が忘れられることのないようにする」という狙いでしょう。
もしかしたら復興祭のことも念頭にあったのでしょうか。
なぜかお祝い事と勘違いした人が多かったようで。
某所では猛反発をくらっていましたが、本来”記念”という言葉にはめでたい意味はないので、これまた説明不足というか意味の取り違えというか世論とのすれ違いというか。
震災と地震どうちがう?
ついでに”震災”と”地震”の使い分けについて。
”地震”は地震そのもので、震災”は地震によって起きた諸々の災害のことを指しますよね。
ですので”関東大震災”といった場合は地震によって起きた火災旋風や建物の倒壊とその被害などを指し、”大正関東地震”というとその原因になった地震そのものを指すわけです。
見たまんまですが、「アレ?」と思う人もいそうなので確認させていただいました。
関東大震災の被害については広く知られていますので、ここでは割愛させていただきます。
そろそろ復興のお話に入りましょう。
関東大震災のとき総理大臣がいなかった
実は関東大震災が起きたとき、日本は首相不在の状態でした。
それまでの総理は加藤友三郎という方でしたが、約一週間前に亡くなっていたため、別の大臣が兼務していたところだったのです。神様も意地悪なことをするもんだ。
まぁ、それを言ったら、江戸幕府ができてから江戸・東京が壊滅したのもこれで何度目だよという話です。
首相不在、あまりの被害の大きさで報道機関もストップ、あっちこっちで火災と建物の倒壊により死傷者が続出……というヘタをしたら国が滅びるほどのこの難事。
対応した中心人物は、内務大臣の後藤新平でした。
彼はナポレオン3世がパリを改造したときの計画を参考にし、「東京もパリみたいに区画整理をして、道路を放射状に延ばしましょう」という壮大な復興計画を立てました。
しかし国家予算1年分の資金が必要になることが判明し、猛反発を食らって断念しています。
結局、当初の予定の1/3以下で復興計画をやり直すことになりました。
このとき昭和通りや靖国通りなど、現在の都心で大きな役割を果たしている道路が作られています。
そして……。
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